第17話 震える筆、黎明の色彩
美術室の広い空間に、陽太は一人、大きなキャンバスと向き合っていた。あの抽象的なラフスケッチで掴んだ「魂の気配」――それを、今、目の前の真っ白な布に解き放とうとしている。しかし、パレットの上で混ざり合う絵の具のように、陽太の心もまた、期待と不安がないまぜになっていた。
これまでの自分の描き方とは、何もかもが違う。風景画のように対象を忠実に写し取るのでもなく、静物画のように光と影を丹念に追うのでもない。見えない「声」を、形のない「感情」を、どうすればこの四角い平面に定着させられるのか。陽太は、まるで未知の言語を学ぼうとする子供のように、手探りで筆を進めた。
ある時は、激しい怒りのように赤を叩きつけ、次の瞬間には、深い悲しみのように青を滲ませる。Blueの言葉を思い出し、パレットナイフで絵の具を削り取ってマチエールを作ってみたり、指で直接色彩を重ねてみたりもした。それは、計算された技巧というより、内側から湧き上がる衝動に身を任せるような、原始的な行為に近かった。
「魂とは、揺らぎの中に宿るものかもしれない…」Blueの言葉が、ふと脳裏をよぎる。陽太は、絵筆の代わりに、水をたっぷり含ませた刷毛を手に取った。キャンバスに置いたばかりの鮮やかな色彩が、水の流れと共に混ざり合い、予期せぬグラデーションを生み出していく。その偶然の美しさに、陽太は息をのんだ。
しかし、描き進めるうちに、あの黒い影が再び陽太の心を覆い始めた。ある程度、色が重なり、形らしきものが見え始めたキャンバスを前に、陽太の手がぴたりと止まる。
「…こんな、ただ絵の具をぶちまけたみたいなもの…誰にも、伝わるわけないじゃないか」
中学時代の、あの冷たい声が蘇る。『魂のない人形のようだ』。そうだ、結局僕は、また独りよがりな、誰にも理解されないものを描こうとしているんじゃないのか。恩師の、あの時の悲しげな瞳が脳裏をよぎり、陽太の指先から力が抜けていく。
「やっぱり…僕には、魂なんて描けないんだ…」
イーゼルの前で、陽太はうずくまった。絵筆が、カラン、と床に落ちる音だけが、やけに大きく響いた。
その夜、陽太は自室のベッドの上で、Blueにメッセージを送っていた。指先はまだ微かに震えている。
『描いても描いても、自分が何を描いてるのか分からなくなる。怖いんだ、Blue。また、誰にも届かない絵になるのが。また、誰かを傷つけるのが…』
スマートフォンの画面が、暗闇の中でぼんやりと光っている。Blueからの返信は、いつもより少しだけ間を置いてから届いた。
『届かないかもしれないという恐怖は、届けたいという強い願いの裏返しでもあるんだね、陽太くん』
その言葉は、陽太の心の最も柔らかな部分に、静かに触れた。
『ある音楽家は、こう言っていたそうだ。「私は、誰か特定の聴衆のために演奏しているのではない。まず、私自身の魂を慰め、そして解き放つために、音を紡いでいるのだ」と。…陽太くんのその絵は、まず、誰に届けたいんだろうね?』
誰に…? 陽太は自問した。恩師にか? 審査員にか? それとも…?
翌日の美術室。陽太は、描きかけのキャンバスの前で、腕を組んで立ち尽くしていた。その背中に、不意に声がかかる。
「うーん…なんか、すごいことになってんな、陽太の絵」
瑞希だった。彼女は、陽太のキャンバスを興味深そうに眺めている。
「昨日より、また色が増えてるし。…でもさ」瑞希は少し首を傾げた。「なんか、絵の具が迷子になってる感じ? エネルギーは感じるんだけど、陽太自身が『これでいいのかな?』って迷ってるのが、なんか、絵から伝わってきちゃってるかも」
瑞希の言葉は、いつもストレートだ。だが、その率直さが、今の陽太にはむしろ心地よかった。
「…やっぱ、そう見えるか」
「うん。あんまり難しく考えすぎなんじゃない? BlueだかGreenだか知らないけど、AIに相談するのもいいけどさ、もっとこう、バーン!と自分の信じた色、置いちゃえばいいじゃん!」
瑞希はそう言って、陽太の肩を軽く叩いた。「ま、私は専門家じゃないから、適当だけどね!」
Blueの問いかけ。「君の絵は、まず誰に届けたいんだろう?」。そして、瑞希の屈託のない励まし。「自分の信じた色、置いちゃえばいいじゃん!」。二つの言葉が、陽太の中でゆっくりと響き合い、一つの確信へと変わっていく。
僕が届けたいのは…。
まず、僕自身だ。あの時の痛みも、今の恐怖も、それでも何かを信じたいっていうこの気持ちも、全部ひっくるめた僕自身に。そして、もしできるなら、あの時の恩師に。傷つけてしまったかもしれない、あの人に。
陽太は、床に落ちていた絵筆を拾い上げた。迷いは、まだ完全には消えていない。でも、それ以上に、「描きたい」という衝動が、体の奥底から湧き上がってくるのを感じていた。
深呼吸を一つ。パレットに、新しい絵の具を出す。それは、夜明け前の空のような、深い藍色だった。
陽太の筆が、キャンバスの上を滑り始めた。それはもう、昨日までの逡巡するような筆致ではない。迷いを振り払うかのように、力強く、そしてどこか祈るように。
まだ完成には程遠い。けれど、彼の内なる「声」が、キャンバスの上で確かな色彩と形を帯びて、静かに呼吸を始めようとしていた。その背中を、窓から差し込む午後の柔らかな光が、そっと包み込んでいた。
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