落とした斧と湖の女神
維七
第1話
ぼちゃん、という音に振り返った時にはすでに手遅れだった。
大切な斧が湖に沈んでいく。少女カルエカの目にはその光景が映った。
途端に心臓は破裂しそうなほど大きくどきりと跳ね、爪を立てられたように鋭く傷んだ。
慌てて湖に手を突っ込んだ時にはすでに手遅れで、澄んだ水の中を斧は見せつけるようにゆっくりと沈んでいく。
どうしよう、斧が暗闇に消えるまでに考えられたのはそれだけだった。波紋の立つ水面を見つめてカルエカは呆然としていた。
やってしまった、と空を見上げたのはどれくらい経ってからだったのだろうか。
凪いだ風が目を乾かした。
滲んだ涙は瞳を潤した。
突然のことだった。なんの前触れもなく湖の水面が光輝き始めたのだ。
「うわ!」
光り輝く湖がまぶしくてカルエカは思わず目を逸らした。
『貴女が落としたのは金の斧ですか?銀の斧ですか?』
耳の奥を優しく撫でるような美しい声がどこかから聞こえてくる。
「なに?誰なの?」
少し和らいだ光の中、カルエカは声の主の方を見る。
そこには湖から身体を半分ほど出した女性がいた。
美しい金髪に白銀の髪飾り。白い長衣は薄く輝いているように見える。
「あなたは……」
「湖の女神ですよ。さあ早く答えて」
目を閉じたまま話す女神の姿がカルエカには妙に神々しく見えた。
女神は、さあ、と言ってあっけにとられるカルエカを急かす。女神の手に握られている金の斧と銀の斧、それらを見てカルエカは小さく首を振る。
「どっちでもないわ。私のはもっとくたびれた普通の斧よ」
そう答えたカルエカに湖の女神は嬉しそうに、そして満足そうに頷いた。
「貴女はとても正直な人のようですね。正直者にはこの金の斧と銀の斧を2本とも差し上げましょう」
女神はゆっくりとカルエカに近づき、押し付けるように2本の斧を差し出す。押し付けられるままにカルエカは2本の斧を受け取ってしまう。
では私はこれで、と女神はそそくさと湖の中に帰ろうとする。
カルエカは慌てて
「待って!」
と女神の手首を掴んで引き止める。
「な、なんですか。それだけでは足りませんか?意外とがめつい人ですね」
手を振り払おうとする女神にカルエカは頭を横に振って
「違うわ。私の斧を返して欲しいの」
と訴える。
「普通の斧が必要なら新しいのを買えばいいじゃないですか。あげた斧を売ればお金には困らないでしょう」
「あの斧はお父さんに貰った大切な斧なの!だからどうしてもあの斧を返して欲しいの!金の斧も銀の斧もいらない!だからお願い!」
はぁ、と女神は面倒くさそうにため息をついて
「ここにはありませんよ。沈んでいってしまいましたから」
と当然のことのように。
「そんな……」
カルエカはがくりと肩を落とす。その姿を見て女神はまた面倒くさそうにため息をつく。
「そんなに取り戻したいなら探しに行きますか?」
「探しに?湖の中に?できるの?」
驚いたカルエカは女神の閉じた目をじっと見つめる。
「できますよ。在処も見当はつきます。でも……」
「行くわ!連れて行って!」
カルエカの目は決意に満ちていた。その目を見て女神は小さく頷いた。
「わかりました。では行きましょう」
そう言うと女神はカルエカの腕を掴む。
「え?ちょっと」
「しっかりとついてきてくださいね」
女神は女神らしく優しい笑顔を浮かべながらカルエカを湖に引き摺り込んだ。
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