読まれる読者
柏望
独りが二人
読んでいる本がつまらない。朝のむせかえるような通学ラッシュの中で読んでも。講義の合間の空き教室で昼飯を食いながら読んでも、夕暮れの講演で読んでもつまらない。本当に面白くないがそれでいい。どう扱っても文句を言わず、こちらのペースで向き合えるのだから人間よりよほど俺の相手をするのに向いている。
読んでいる間は人に絡まれないのも気に入っている。断り切れずに入ってしまった文芸部だが、部室にいても本を読んでいればカッコがつくので助かっている。
「今日来るんだってな。噂のアイツ」
「私それ目当てで今日部室に来たんだ」
なにやら部室が騒がしい。我が文芸部室は来ればだいたい騒がしい場所だが、騒がしくなる理由はある。格闘ゲームにハマった、ソーシャルゲームに入れ込む、アニメを通じてでしか会話ができない。そういう手合いの騒がしい連中がいないのに今日の部室はやけに騒がしい。理由は気になるが俺は本を読むのに忙しい。
「でさ、噂の彼ってどんな人なの」
「え、彼女じゃねえの」
「多田くんからは男の人だって聞いたけど」
第一印象についての興味深い話が聞こえてきた。少なくとも、自分への言い訳に数ページもかけているこの小説よりは面白そうだ。わかっているだろう自分の本心に辿りつくまでも長すぎる。丁寧な心理描写というのだろうが、俺はこの本の主役が気に食わないのでひたすら退屈だ。
とはいえ
「あーアイツは彼だよ。男」
「多田くんおつかれー。よく知ってるね。彼って部室に来る方だっけ」
「いや、新入生ゼミで一緒なんだ」
「ちょっと信じらんないんだけど。必修にもあんま出てなくない」
「先生方のお気に入りらしいよ」
多田の野郎は文学部だったか。
となると、今日来るらしい噂のアイツも文学部ということだ。文学部だというからには本をたくさん読んでいるのだろう。話題に挙げている面子からみるに、文学方面の造詣が深そうだ。今の部室にはコテコテの文芸勢力しかいない。小説を書いたり詩を詩ってみたり、和歌や漢詩なんかを嗜んでいるやつもいる。部室でコイツらが最後に集まったときはGW明けに刊行する部誌の話をしていた。
気づいたがこの部室にとって俺は場違いな存在じゃなかろうか。出て行きゃいいのにと思われないためにも、今は本を読むしかない。
「でもなぁ。なにを読んでるかわからないんだよなぁ」
「この前古本屋で見たよ。レジにいたからどんな本を買ったのかまではわからなかったけど」
「古本屋ときやがったか。なっかなかの通じゃないの」
「だよねー。ブックオフならむしろ安心できるんだけど」
ブックオフは古本屋じゃないのか。というか、古本屋に行くのは通なのか。本を買う金のない貧乏人がいくところだと思っていた。大学図書館通いの俺はそれ以下だが。
俗に言う本の虫。それも小説の類に限っても好みというか専門の分野があるのは、大学から本を読み始めた俺でもこの文芸部に通っているうちにわかってきた。読む本はライトノベルなのか。文学なのか。文学なら日本文学か外国語文学か。日本文学なら現代文学なのか古典文学なのか。現代文学なら流派はどこだ。という具合に枝分かれを起こして、枝が一つ違えば学科を跨いだように話が変わってくる。
ここに来るだろう野郎がなにを読んでいるのか気になってきたが、今の俺には関係ない。俺はここで本を読むだけだ。
「最近あんまし本読んでないなぁ。多田くんはさっき読んでるの見たけどなに読んでたっけ」
「春樹の『街とその不確かな壁』ってやつ。最近のも読んどかないとなと思ってさ」
「小谷くんはなに読んでんだっけ」
「源氏」
「あー源氏物語か。この前読み終わったとか言ってなかったっけ。もう一周したら読みたい物語とかないの」
「源氏」
「小谷くんマジか」
「ん。俺ぁ源氏しか読まねえって」
コイツマジか。玉置先輩の勧誘を受けて入部して以来、俺は齧り付くように本を読んだ。
だというのに、量も足りなければ質も足りない。読んでも読んでも、勧められた本が増えていく。忘れないようにつけてある記録ですら読み物になるくらいには読むべき本を貯めている。
それだけで精一杯だというのに、本には読み方というのもあったのか。精読。ながら読み。積ん読。俺がやっているのは確か乱読というらしい。入るまでともかく、入ってからは馬鹿にされないくらいには読んでいるつもりだったが、上には上がいるようだ。
同じ本をあめ玉を舐めるように繰り返し読むのをなんと言うのだろうか。復読。省読。いずれもピンとこないし、再読と表現するには、小谷の読み方はやや常軌を逸している。
読んできた本の量や質に加えて、読み方にまで差を付けられていたとは。落ち込みそうになるが、今は黙って本を読んでいこう。
「うわー。多田くんも小谷くんもいっぱい読んでて凄いなぁ」
「いやいやそんなことねえって。俺ぁ全然書けてねえ。今回の作品だって締め切りギリギリで先輩方が恐かったのなんのって。多田の野郎が羨ましいよ」
「中田さんみたいに二作目三作目を提出したわけじゃないし、持ち上げられても恥ずかしいだけだな」
女三人寄れば姦しい、とはこの前読んだ本に書いてあった言葉だが。文芸部三人寄っても締め切りの話なり作品の話なりが始まるので、やはりやかましい。頭を捻って書いた作品にああだこうだと言われる気持ちはどんな感じなんだろうか。
他人の書いた作品に触れるうちに少しわかるようになるかと思うと、今手に持っている本も読みたくなってくる。
「お疲れ様です。文芸部室はここですか」
「はーいそうです。きみが」
「はじめまして。イチバと呼んでください。あ、多田じゃん。玉置先輩はどこ。来るって言うから来たんだけど」
ページを捲る手が止まる。イチバとかいう奴の声はどこか上の空で部室の空気になじんでいない。だからこそ、コイツが読んだ名前がよく聞こえた。
コイツも玉置先輩目当てか。来ると信じて毎日部室で本を読んでいる身からすれば、来るというから部室に来たとかいう傲慢は気に食わない。
聞こえたのは男だか女だかよくわからない声だが、今ここで読んでいる本から目を離すのも億劫だ。まったく頭に入ってない状態でページから目を離せば、俺は見開きの最初からページを読み返すことになる。この本を読むのは一度で十分だ。
「ん、その本借りてたのは君だったのか」
「あ、あぁ。麻井か。今読書に集中しているだろうから、そっとしといてやってくれないか」
「別に麻井に用があるわけじゃないよ。本に用があるんだ。多田、ちょっと呼んでくれないかな」
誰が呼ばれたって反応してやるものか。今はお前みたいなやつと喋る時間でなく、本を読む時だ。
「あの本、玉置先輩に勧められてるんだ。ちょっと話してくる」
「コイツ麻井と同じタイプかよ」
「小山、なんかあったら二人で止めるぞ」
「ういー」
お前ら俺をなんだと思ってるんだ。ただ本を読みに来ているだけだぞ。
ヒタヒタと静かな音を立てながら近づいてくる足音が、すぐ近くまで来て止まった。なにかしてくる様子もないので放っておく、誰がどこにいようとここで俺は本を読む。
「その本面白くないだろ。僕に貸せよ」
「なら面白くないと玉置先輩に言え」
ページを読み切ったところだったので顔を上げれば、イチバの顔は思ったより近くにあった。丸い子供のような目が、文字通り俺の瞳を直視している。メンチを切られているのかと思ったが、本のように俺自身が読まれているような感覚がしている。
目を合わされれば逸らさない文化で育ってきたのでにらみ返す。イチバが少しでも視線を逸らせばすぐにその場から立ち去ろう。と思っていたのだが、ゆっくりとした瞬き以外は顔をピクリとも動かさない。本の中から抜け出してきたような実存感の薄さはおおよそ自分の知るものではなかった。
「その作家のデビュー作読んだことあってさ。文章は読者置いてけぼりで、ストーリーも特になかったんだ。君が読んでいる間に少し読ませて読ませてもらったけど、二作目も同じみたいだね」
「だからその本をさっさと渡せと。断る」
「気を遣ったんだけど、上手くいかないね。くだらない本ならいいやって渡してくれるのを期待していたんだけれど」
「なにを期待してるか知らんが渡さん。先輩から勧められた本だ。後輩として読んで感想を伝えるくらいのことはしないといけない」
「なんだ。同じ穴の狢か。気を遣って損した」
イチバの口調は平坦で、表情も人形のように変わらない。本を読んでいるように人を見ている奴だと感じたが、人は物語に触れているときにこうも無感情なのだろうか疑問を抱いてくる。
「玉置先輩も関わっているから顔は立てといてやる。図書館に返却したら、メモを部室に残しておくからこれでいいだろ」
「めんどくさいな。連絡先くれ。LINEだっけ。あれでいいよ」
イチバがスマホを渡してきた。電源ボタンを押せばすぐにホーム画面が映る。画面ロックもしていなければ、ホーム画面にもアプリが数えるほどしかない。文字通りの連絡手段としてのスマートホンだった。
操作を知らない相手に教えてやるほど親切でもないから、さっさと交換して返そうと俺のタブレットを鞄から取り出すとイチバが急に口を開いた。
「なにそのデカいの」
「タブレットも知らんのか。スマホの画面がデカいやつだ」
「便利そうだね」
それ以上喋ることもなさそうなので操作を続けていると、部室の中央の方からこそこそと声が聞こえてくる。よく聞こえないが、イチバと俺がうまくやっているのに驚いているらしい。読まれる側に立たされるのはあまり心地いい経験ではないというのに。
本を読むようにしか人と関われないのか。というのがイチバの第一印象だが。向こうは俺がどう見えているのか。少しだけ気になった。
読まれる読者 柏望 @motimotikasiwa
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