アーク・セルディアの転相律

Flare

序章

序章 断裂する相

夜は、静まり返っていた。


東京郊外の学生寮。

高山たかやまあらたは、ベッドに身を沈めていた。

研究資料とコード断片の残る机を背に、意識はゆるやかに沈んでいく。


(……少しだけ、休もう)


博士課程の追い込み。量子情報の実験系は佳境に入っていた。

理屈としては、眠れば脳は回復する。

ただ、それだけのはずだった。


だが——

その静寂は、突如として破られた。



耳鳴りが消える。

重力の向きが歪む。

意識が、急激に収束しはじめる。


骨も、神経も、そして思考さえも。

何かに引き剝がされるように、"外"へと連れ去られていく。


光が流れ込む。

それは視覚ではなく、だった。


——観測指数ϕ=0.983。臨界突破。

——Ωサモン、接線開始。

——転写先位相、マナ相座標、確定。


音ではなかった。

それはの奔流だった。


視覚は消え、触覚は数列に置き換えられた。

圧力がテンソルに還元され、熱が偏微分として知覚された。

「自分」という関数が、定義域ごと分解されていく。


視界の代わりに、位相角θの乱反射が脳を打った。

耳はS勾配の斜面を滑り落ち、Ωの残響が心臓の波形と干渉する。

時間tはもはや独立変数ではなく、干渉項として観測された。


たとえば——

熱は「⍬≠0」としてだけ意味を持ち、

不安は「∂Ω/∂S≠0」としてしか定義できなかった。


そのすべてが、迫ってくる。


(……これは、観測されている……僕という系そのものが)


Σ、Δ、∂。


最後に刻まれたのは、なぜか馴染み深いその記号だった。


(僕は——)


冷静に、観測するもう一人の自分が囁く。


(——情報の断片に変わりつつある)


そして、光に呑まれた。



どれほどの時間が流れたのか分からない。


高山新は、ふと、あるに気づいた。


焦げた金属。乾いた砂の臭い。

鉄錆に似た、どこか異質な空気のざわめき。


だが、それは普通の空気ではなかった。

空間そのものが震えているような、微細な圧力の揺れを感じる。


まぶたを押し上げる。

光が、違う。

明滅する光の色温度。くすんだ青と赤の間。

重い空気の中、揺らめく粉塵がひらひらと降りていた。


視界が、ゆっくりと焦点を結ぶ。


石造りの天井。

割れた壁。

床に刻まれた、意味の分からない幾何学的な線と円。

中心部は焼け焦げ、崩落した痕がある。


それは、ただの装飾ではなかった。

何かの「装置」。

そう直感させる、奇妙な緊張感がそこにはあった。


息を吸い込む。


……肺が焼けるように痛む。

空気の成分が違うのか、それとも、そこに含まれる「意味」のせいなのか。

呼吸のたびに、言葉にもならない何かが、内部をかき混ぜてくる。


ふと、横たわる何かが目に入った。


一本の短剣だった。

見たことのない、鉱石とも金属ともつかない質感。

その柄には、奇妙な記号が彫られていた。


Σ。Δ。∂。


(……数式? でも、どうして)


思考の奥に、微かに疼くような違和感があった。

何かが身体の奥深くへと、じわじわと染み込んでくる感覚。

それは熱のようであり、圧のようでもあり、しかし確かにだった。


空気が、言葉を運んでいる。

いや、もっと直接的に、「定義」を流し込んでくる。

吸い込むたびに、何かが肺の内側に焼きついていくような異物感。


喉に刺さるような灼熱。

指先がかすかに痺れている。

皮膚の裏がざわつき、まるで外部から何かが侵入してきたかのようだ。


(……これは……ただの熱じゃない。情報……?)


目の奥が痛む。

視界の周縁が淡く滲んだ。

ほんの数秒、光の粒が、空中に漂っているように見えた。


緑がかった光。

息を吸うたび、その粒が肺に入り込んでいる錯覚。


それが現実なのか、幻覚なのかは判別できなかった。

だが、確実に何かが身体の構造に干渉している感覚だけが、そこにあった。


皮膚の裏が、わずかに焼ける。

それが化学反応か、言語の記憶かすら分からなかった。



同時刻。帝都アストリス、学院区。


リス・エーテリンは、ルーン観測塔のひとつにいた。


校正中の符計が、一瞬ノイズを弾いた。


「……なに?」


魔力干渉があった。明らかに通常波形ではない。

慌てて観測盤に駆け寄る。⍬の変動が異常域に達し、Ω残差が連動して跳ね上がる。


(今の波形——位相剥離波!?)


周囲にいた解析員の一人が、訝しげに目を上げた。

だが、リスはすでに意識を解析盤に注ぎ込んでいた。


表示板の数式が、まるで独りでに組み換わる。

補助系が、S値とν係数を交差解で再評価しはじめた。


(保存則の逆流……!?)


仮にそれが外典形——L3の干渉であるならば、

この逸脱は「理論上すら定義されていない」範囲に達している。


背後で扉が開く音。

視界の隅に、一瞬、ローブをまとった男の姿が映る。

教団査察官のリグロか、それとも摂政派の情報部員か。

どちらであれ、この数値の意味を理解できる者は限られている。


だが、今は応対している暇などなかった。


それがなぜ成立しているのか。

誰が、何を——

思考の途中で、微かに奥の扉が開いた。


気配が一つ。

誰かが入ってきたのだろう。

学長の秘書か、それとも摂政の視察員か。


だがリスは、それすらも今は構わず、手元の符計へと指を走らせた。


方向は——聖堂区。


彼女は転移符を掴んだ。

符路の光が足元に展開される。


息を呑む隣の補助員を一瞥し、リスは短く告げた。


「私が行く。これは……理屈の領域よ」



——そして、どこか別の場所で。


一人の青年が、瓦礫の中に倒れていた。


名も、記録も、この世界には存在しない。

けれど、その存在が孕む"ずれ"は、確かに世界の位相を乱していた。


彼の手の近くで、短剣が、かすかに光を放つ。

その柄に刻まれた三つの記号が、微かに脈動していた。


Σ。Δ。∂。


それは、始まりの徴だった。

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