血の島ー北センチネル漂流記ー

@KAZUMASAYAN

第1話


 

インド東方、アンダマン諸島。その最も西に位置する北センチネル島は、地図上ではただ緑に塗りつぶされた小さな点だ。世界最後の孤立部族――センチネル族が住むこの島には、いかなる政府の保護もなく、外部からの立ち入りは厳禁とされている。

だが、好奇心は、しばしば命取りとなる。


***


2024年8月。

フリーランスの探検家、佐伯航(さえきわたる)は、37歳の誕生日に自らに課題を与えた。

「北センチネル島に上陸し、センチネル族との接触を試みる」

無謀であり、違法でもあったが、航はそれを知った上で、敢えて行動に出た。取材費用は全てクラウドファンディングで集めた。集まった支援者たちは、密かに、しかし熱狂的にこのプロジェクトを応援していた。


同年8月14日、航はチャーターした小型漁船に乗り、夜陰に紛れてアンダマン諸島ポートブレアの港を発った。

同乗していたのは、地元の若い漁師二人。しかし彼らは、島から5キロ以上近づくことは断固拒否した。

「絶対に無理だ、あそこには近づけない」

航は仕方なく、5キロ手前でゴムボートに乗り換えた。手にはビデオカメラと、防水のリュック一つ。


その時点で、彼の運命は決まっていた。


***


8月15日、午前2時。

波間に漂う航のボートは、静かに島へと近づいていった。月明かりに照らされ、島の輪郭だけがぼんやりと浮かび上がる。密林が海岸線まで迫り、浜辺はどこも人影がない。


だが、航には確信があった。

「誰もいない隙を突けば、接触できるはずだ」


ボートを浜辺に引き上げる。ざらついた砂が靴底にまとわりついた。カメラを回しながら、航は慎重に歩き出す。

虫の羽音、波のさざめき。だがそれ以外には、不気味なほどの静寂。


10メートル、20メートル、森の入り口へと近づく。


その時だった。


「ヒュッ」


乾いた風切り音。

反射的に身をかがめた航の耳元を、鋭い矢がかすめた。

次の瞬間、闇の中から現れた影。細身で、裸に近い褐色の体、手には槍。

それが五、六体――いや、もっとだ。


「やばい」


航は全速力でボートへと引き返した。だが、足を取られた。砂地に隠れていた網。

転倒した瞬間、彼は肩口に鋭い痛みを感じた。槍が浅く刺さったのだ。


視界がぼやける。耳鳴り。

ただ、必死で、必死でボートにたどり着いた。


浜辺の端、かろうじてボートにしがみつき、パドルを手繰り寄せる。


だが、遅かった。


追いかけてきたセンチネル族の少年が、航の背にもう一本槍を突き立てた。

叫び声を上げた航は、よろめき、ボートごと海に落ちた。


冷たい海水が傷口を焼いた。

咄嗟にボートにしがみつきながら、航は必死で沖へ向かって泳いだ。センチネル族は深追いしてこなかった。海に対して彼らは慎重だった。


どうにか500メートルほど沖へ流されたところで、航は力尽きた。


***


気がつくと、朝だった。


ボートはかろうじて浮かんでいたが、潮に流され、北センチネル島の北端近くに打ち上げられていた。

つまり――彼は、再び島に戻されてしまったのだ。


呼吸が苦しい。傷口からは血が滲み、脈打つ痛みが広がっている。

航は這うようにして森の縁に向かう。森に隠れるしかない、そう思った。

島民たちに見つからなければ、助かるかもしれない。数日待てば、救助が来るかもしれない。


だが、それは幻想だった。


森は、地獄だった。


棘だらけの蔦、群がる毒虫。湿った腐敗臭。

何より、絶えず自分を見張る視線を、航は感じ続けた。


***


2日目。

食料も水もない。

リュックに入っていた非常食は、ほとんど海に流されていた。

口にできるものは、どれも苦く、腹を壊した。


夜になると、島全体がざわめく。

どこかで、太鼓のような音が鳴っていた。

乾いた木を打ち鳴らす音。それが、少しずつ近づいてくる。


3日目。

航は衰弱していた。

夢か現か分からない意識の中で、彼は誰かに見下ろされていた。褐色の顔、黒い瞳。

その目に、憎しみも、好奇心もなかった。ただ、冷たい無関心だけがあった。


「……たすけ……」


声にならない声を漏らした。


センチネル族の少年は、航に一瞥をくれると、静かに立ち去った。


それが、彼の最後の接触だった。


***


数日後。


アンダマン警察が、密漁者取締りのために島近海をパトロール中、打ち捨てられたゴムボートを発見した。

岸辺には、人間のものと思われる骨がいくつか散らばっていた。

センチネル族の姿はなかった。


調査はすぐに打ち切られた。

国際的な非難を恐れ、インド政府は「現地文化を尊重する」との理由で、島への再接近を禁じた。


航のカメラは回収されなかった。彼の記録は、海の底に沈んだままだ。


***


それでも、都市伝説のようにして噂は広まった。

「島の森では、今も、異邦人の幽霊が彷徨っている」と。


波間に揺れる小さな影。

それは、彼の魂なのかもしれない。


好奇心に負けた男の、静かなる末路だった。


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