第7話 家族の肖像

「……なんとか無事に逃げ切れたな。生還したことを祝い合おう、橘音葉」

「あ、あの……。冷静に考えてもやっぱり私が逃げる必要って無かったですよね……?」


 学校近くにあるチェーンの喫茶店、その一角。向かい合って座るのは、さっきまで校門前でシャボン玉を吹いていた男――久遠あきらさん。


 髪もセットされず、服もよれよれで、お兄さんの身なりは相当怪しい。とても久遠さんと血が繋がっているようには見えない。しかし疑う私に、お兄さんは身分証を見せ、確かに久遠晄であることを証明していた。年齢は二十八歳だという。


「何か頼むといい。どうだ、この特大カツパンでも食っておけ」

「い、いや。私は……。夕飯もあるので……」

「遠慮することは無い。俺は大人だ。社会人だ」

「大人があんな情けなく警備員さんから逃走を……」

「この身なりだ。捕まれば面倒ごとになったからな」

(じ、自覚はあるんだ……)


 私はカフェオレを、お兄さんは長靴型のカップに入ったメロンソーダを頼む。ずずずとメロンソーダを吸った後で、お兄さんは言う。


「本題に入ろうか、橘音葉。俺は今日お前に会いに来た」

「その前に、なんで久遠さんのスマホを持ってたんですか……」

「久遠さんか……俺も久遠だがな。まあいい。我が愚妹から没収した」

「愚妹……」


 謙遜の意味だから、そんな気にすることは無いと思うけれど……。


「ああ。愚直に可愛い俺の妹からな」

「褒め言葉だった……」

「自分で言うのもどうかと思うが、俺の妹、透子は可愛い。本当に可愛い。可愛くて頭がおかしくなってしまいそうなレベルだ」

「お、お兄さん……」

「ふん、シスコン兄貴と引いたか」

「ど……同意です!」


 私は拳を前に突き出していた。お兄さんも同じように拳を出して突き合わせる。


「いや、あの……私、四月に久遠さんに会ってから、彼女に惹かれっぱなしで……! 初めて空き教室で、久遠さんを見たときから。彼女にも、彼女の演技に夢中なんです。あと久遠さん、クールなようでいて意外と可愛い所もあって。昨日、謎ドリンクを飲んだときにふと見せたうげって感じの顔とか!」

「そうだろう! そうだろう! あいつはもう可愛いのだ! 可愛い俺の妹だ!」

「はい! だから今、演劇部での久遠さんとの毎日も楽しくて――」

「やめてくれないか、透子との演劇」

「え?」


 あまりにも唐突に放たれるお兄さんの言葉に、私の思考は停止する。


「もう一度言おうか。いや、何遍でも言ってやろう。あいつと演劇をするのはよせ。友達付き合いを止めろ……とまで言うのは出過ぎだな。少なくとも演劇部への所属は俺から許可しない。退部させるつもりだ」


 私は席から勢いよく立ち上がっていた。


「きょ、許可しないって! 何の権限があってそんなことを!」

「権限ならあるさ。あいつの保護者は俺だ。親権者も俺だ。学費を全額払っているのも俺だ。口出しくらいはする」

「親権って……。それじゃあ、ご両親はもう……」

「ピンピンしているさ。ただし、俺の両親は透子を自分の子供と認めていない。既に透子を産んだときの記憶も、幼少期の記憶も、奴らからは失われている。奴らにとって、透子は子供でもなんでもないんだ。だから、あいつらは親権を放棄した」

「……!」


 両親が親権を放棄――唐突に聞かされる虚構症候群患者のあまりにも辛い現実。


「座れよ、橘。ここは店内だぜ」

「あ……。す、すみません……」


 茫然と立ち尽くす私に、お兄さんが声をかける。私は、こちらを見ている周りの客に頭を下げて座り直す。


「経緯から話してやろう。どうして俺が今日お前に会いに来たのかを」


 お兄さんは語る。お兄さんと久遠さんは二人暮らしだそうだ。お兄さんはいつも家に遅く帰るが、昨日はたまたま早く帰れたのだという。しかし、家にいるはずの久遠さんがいないため、久遠さんにのスマホに電話をかけた。


(私とコンビニにいたときの久遠さんの反応は……そういうことだったんだ)


 お兄さんは帰ってきた久遠さんに問いかけた。久遠さんは正直に話したという。新歓公演に出たこと。そして今は演劇部に所属して毎日練習していること――。


 そして部長である私のことを聞き出して、直訴に来た。


「俺は演劇など看過できない」

「ど、どうしてですか。家族なら、久遠さんが演劇を好きなことは分かってるのに」

「虚構症候群はお前の想像なんかの遥か上を行く代物だ。両親が親権を放棄というだけでもその異常さが分かるだろう? 言っておくが、俺の目から見て、両親は透子を溺愛していたぜ。それをもぶち壊すのが、虚構症候群だ。部活など、お前にとっても透子にとっても、不利益にしかならん」

「不利益って……」

「虚構症候群は、周囲個体に対する進行性対人認知障害症候群だ。特に、演劇など人目に触れる活動の影響は計り知れん。お前も綾瀬凛花事件のことは知っているだろう。その二の舞になる。いつステージⅢの孤立期に進行するかも分からんからな。そうなった場合には、虚構影響防止措置の実施も実行範囲だ」

「きょ、虚構影響防止措置……?」

「虚構症候群がステージⅢに入った場合、政府は患者に対して、指定病院または研究機関への強制入所措置を取らせることができる。社会的な影響を、可能な限り封じようというわけだ。今、ステージⅡのあいつが、いつⅢに入るか分からん」

「お、お兄さんて……その、一体何者なんですか?」


 なんというか、ただ虚構症候群の患者の家族にしては、余にも詳しすぎる――というか、専門的すぎる気がする。


「言っていなかったか? 俺の所属はこれだ」


 お兄さんは名刺入れを取り出すと、一枚を机に差し出した。


「ラ、ラーメン四郎のポイントカード?」

「……間違えた。こっちだ」


 代わりに差し出した名刺には、こう書かれていた。


国立医科学研究センター附属脳神経疾患研究所、認知神経科学部門・特任研究員。


 難しい用語が並んでいるけれど、ようはこれって――。


「俺は虚構症候群の研究者だ。国内では第一人者に近い」

「……!」

「虚構症候群のことを俺は知り尽くしている。透子の病状もな。その俺が無理と言っているんだ。諦めるんだな。……飲み物、お代わりいるか?」

「……いらないです」

「そうか。まあ、話はそれだけだ。演劇については諦めろ。透子がお前らの部室を訪れることはもう二度とない」


 伝票を持って立ち上がろうとするお兄さん、その手を私は掴んだ。


「なんだ? まだ飲み足りないか?」

「お兄さんも、久遠さんのことを忘れかけているんですか?」

「……」


 お兄さんの顔が大きく歪んだ。


「……ああ。俺とて例外ではない。あいつと俺の年齢は一回り離れている。俺はあいつが生まれたときのことも、家に来たときのことも覚えている……筈なのに、別の赤ん坊への記憶と入れ替わっている。今もなお記憶の消失は進行中だ」

「だったら……ううん、だからこそ」


 私はお兄さんを真っ直ぐに見つめた。


「私は久遠さんと演劇をします!」

「……なに?」

「私たちの演劇で、久遠さんの記憶を、皆に強く残すんです。そうすれば皆、久遠さんのことを忘れない!」


 彼は黙ったまま、目を細めた。


「――励起感情記憶説レゾナンスのことを言っているのか? 実現性は低い。夢物語だ」

「……む、難しいことは、初めから分かっているんです。その上で、私は、久遠さんに宣言したんですから」


 ――久遠さんと私で一緒に作り上げようよ。


「だから私は久遠さんと演技をやります!」

「……お前は」


 お兄さんが目を見開く。


「久遠さんと、話し合わせてください」


 お兄さんはふうと息を吐く。


「揃いも揃って、頑固者だな。いいぜ、透子に合わせてやる」

「あ、ありがとうございます……!」

「礼なんて言うな。俺は分からせてやるだけだ。お前らに現実って奴をな」

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