Episode 008 それは、赤色の火照りに。


 ――激しい雨。現在なら『ゲリラ豪雨』と呼ばれるかもしれないけど、この時代に、まだその言葉は存在していなかった。


 今は昭和五十五年、この後に続く年号でさえも、僕らにはまだ未知のものだった。


 未来のことがわかれば、失敗することもなく、皆が笑顔でいられたのかもしれない。でも僕は、時は前に進むことに疑問を抱いていなかった。時を巻き戻したいとも思っていなかった。今この時が、いつも精一杯だから。特にハッピー先生と出会ってからは……



 ここはどうやら川沿い……


 周りの景色は激しい雨の幕で覆われ、この空間だけが孤立していた。僕と彼女、二人きりで。このハイキングに参加した他の人たちは、きっと僕らを捜しているだろう。


 けれど今、見つかるのは問題だ。その、僕らは今……


 この場所には屋根はあるものの、壁はない。覆っているのは、降り注ぐ雨の幕だけ。


 真ん中には、水滴を滴らせながら乾かされている衣服が台に置かれていた。そしてその台を囲むベンチ。僕と彼女は震えながら身を寄せ合っていた。少しでも寒さが和らぐようにと、お互いの体温を分け合いながら。肌と肌が密着し、まとうものは何一つない。


 沈黙が続く中、彼女は言う……


「あのさ、旧号きゅうごう。このこと内緒だよ。雨あがったら、ササッと服着るからね。事情は私から言うから、心配いらないから。まあ、見られたのが君で……えっと、まあ、ちょっと平気になったから、君もあまり気にしなくていいから。それより、ありがとね」


 紫色だった唇は赤色へと戻っていた。


 それに目を逸らす彼女の顔は、赤くなって火照っているようだった。冷えていた身体も温まってきているようだ。きっとそれは僕も同じ。激しい息遣いが火照りと共に現れ、それを心の中で「治まれ治まれ」と必死に抑えながら、雨が止むのを待ち続けた。



 ……一粒、また一粒と、静かに雨が減っていく。


 この屋根のある場所、『あまずや』というのかな。外の世界を遮断していた雨の幕は、もう消えかけていた。――そしてほら、何が見えたと思う?


 七色に輝く虹が掛かっているではないか。


 灰色の空を破り、夏の陽射しが何も纏ってない僕らを照らした。……そう、何も纏ってないことを忘れる程、風が運んだこの瞬間は、忘れられない夏休みの風景になった。


 心洗われる瞬間。


 涙が笑顔になる、そんなハッピーエンドのように。


 今、ハッピー先生の笑顔が、とても間近にあった。


 真っ直ぐに、僕を見て……


柴田しばた君から聞いたよ。君の漫画がとても素敵だったって。今度、私にも見せてね」


 七色の輝きの中で、彼女はそう言った。


 僕もきっと笑顔になっていたと思う。この景色のようにパッと明るくなったと……


 何も纏わなかったのは、外観だけではなかった。


 彼女はきっと、僕の内面をも見ていたのだろう。


 何も纏わなかったのは、外観だけではなかった。


 彼女はきっと、僕の内面をも見たのだと思えた。


 そして僕もまた、しっかりとしっかりと焼き付けた。輝く彼女の姿を。



 それはトキメキになっていることを自覚した。やはり彼女は、僕には特別な存在。それは想い出になるまで……そう、あのクラス替えが、物語を大きく変えていくのだった。



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