幸せの明日へ

ふくろう

プロローグ

 鈍い痛みが全身を支配している。壁に打ち付けられた背中が悲鳴を上げ、床に蹲った腹のあたりが熱を持っている。息をするたびに、肋骨がきしむような気がした。


「……っ、ぅ……」


 呻き声すら、まともに出せない。口の中に広がる鉄の味。また、どこか切ったらしい。慣れっこになった感覚だ。


 見上げた先に、鬼の形相があった。かつて「父さん」と呼んでいた男。今はただ、アルコールに侵され、憎悪に顔を歪ませた獣だ。焦点の合わない濁った目が、俺を睨んでいる。いや、俺じゃない。俺を通して、この惨状の原因となった「何か」を呪っている。


 俺にはそれが何なのか、もう分かりたくもなかった。ただ、その捌け口が、俺の身体であるという事実だけが、重くのしかかる。


 殴られ、蹴られ、罵倒される。それが日常だった。家に帰れば、この地獄が待っている。抵抗は無意味だ。懇願も、涙も、火に油を注ぐだけ。心を殺し、ただ時間が過ぎるのを待つ。嵐が過ぎ去るのを待つように、父の暴力が終わる瞬間を、息を殺して待つだけだ。


 学校へ行けば、別の地獄が待っていた。そこは、父の暴力から一時的に逃れられる避難場所ではなかった。歪んだ好奇心とサディズムに満ちた視線が、俺を貫く。嗤い声、嘲りの言葉、そして、容赦のない暴力。


 熱した鉄の棒を押し当てられた背中の焼け付くような痛みは、今も皮膚の下で疼いている。カッターナイフで繰り返し刻まれた腕や背中の線は、最早数える気にもならない。熱湯をかけられた火傷の痕は醜く引き攣り、夏でも長袖が手放せない理由になった。


 殴られ、蹴られるのは日常茶飯事。ゴミ箱に頭を突っ込まれ、汚水を浴びせられる。時には、得体のしれない錠剤を無理やり飲まされ、意識が朦朧とする中で、さらに嬲られた。女子生徒たちからは、嗜虐的な視線と共に、言葉にするのも憚られるような屈辱的な行為を強要されたこともある。あの時の、魂が根こそぎ削り取られるような感覚は、決して消えることはないだろう。


 どうして、俺なんだ?なぜ、俺だけがこんな目に遭わなければならない?何か悪いことをしたか? 誰かを傷つけたか?思い当たる節なんてない。ただ、普通に生きてきただけだ。それなのに、なぜ。


 かつては、温かい場所があったはずだ。食卓を囲む、ささやかな笑い声があったはずだ。だが、それらはもう、遠い昔の幻でしかない。母は去り、父は壊れた。そして俺は、家でも学校でも、サンドバッグのように痛めつけられるだけの存在になった。


 身体中に刻まれた無数の傷跡。痣、切り傷、火傷の痕。それは、俺が耐えてきた苦痛の証明であり、同時に、俺という存在の醜さの象徴だった。鏡を見るのが怖い。自分の身体を見るのが、何よりも恐ろしい。この傷だらけの肉体は、俺が欠陥品であることの、動かぬ証拠のように思えた。


 心は、とっくの昔に限界を超えていた。麻痺しているのか、それとも、もう何も感じなくなってしまったのか。ただ、鉛のような重たい絶望だけが、胸の中に澱んでいる。


 生きている意味なんて、どこにも見いだせない。明日が来るのが怖い。眠りから覚めるのが、怖い。また、同じ苦痛が繰り返されるだけなのだから。


 助けを求める声は、喉の奥で押し殺された。教師に? 親戚に? 誰に訴えたところで、何が変わる? 父の暴力が露見すれば、この歪んだ最低限の生活すら失うかもしれない。いじめのことを話せば、さらに酷い報復が待っているかもしれない。


 誰も信じられない。誰も、俺を救ってはくれない。この世界に、俺の居場所なんて、どこにもない。


「……もう、いいか」


 ぽつりと、言葉が漏れた。誰に言うでもなく、ただ、自分自身に言い聞かせるように。


 もう、頑張らなくていい。耐えなくていい。終わらせよう。この、終わりのない地獄を。


 死ぬのは、怖くないのだろうか。分からない。でも、生き続けることの方が、ずっと怖い。痛みに耐え、屈辱に耐え、心を殺して息を潜める毎日の方が、よっぽど恐ろしい。


 放課後の教室。西日が差し込み、床に長い影を作っている。誰もいない。しんと静まり返った空間だけが、俺の最後の舞台だった。


 重い足取りで、教室の隅にあった椅子を引きずる。ぎ、と床が軋む音が、やけに大きく響いた。埃っぽい匂い。チョークの粉の匂い。もう二度と嗅ぐことのない匂いだ。


 天井の梁を見上げる。そこに、持ってきたロープの一端を、覚束ない手つきで結びつけた。何度も、解けないように、固く、固く。もう一端で、首にかける輪を作る。


 手は、震えていなかった。心も、不思議なほど落ち着いていた。まるで、長年計画してきた、最後の仕上げを行うような感覚だった。


 これで、終わる。やっと、楽になれる。痛みも、苦しみも、悲しみも、屈辱も、全て。俺がいたことなんて、誰も気にしないだろう。すぐに忘れ去られる。それでいい。それがいい。


 椅子の上に、静かに立つ。窓の外では、まだ部活動に励む生徒たちの声が微かに聞こえる。楽しそうな、俺とは無縁の世界の声。


 ゆっくりと、首に輪をかけた。ひんやりとしたロープの感触が、妙に生々しい。目を、閉じる。最後の息を、深く吸い込んだ。


 そして、足元の椅子を、力強く蹴った。


 瞬間、首に凄まじい衝撃と圧迫感。ぐ、と喉が詰まり、息ができない。視界が急速に赤黒く染まっていく。耳鳴りが、頭の中でガンガンと響き渡る。身体が、制御不能に揺れている感覚。


 遠のいていく意識の中で、最後に感じたのは、痛みではなかった。ただ、ひたすらに深い、暗い、静寂への落下感だけだった。

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