あの曲

しろみふらい

あの曲

「長いと思ってた一年も、いつか終わりは来るんだなぁ」


 生徒たちが黙々と弁当を頬張る中、一人呟いた。すぐ横にいた梨花りかは一瞬ちらりと私の方を向いたが、目が合うのが気まずいのだろう。すぐに玉子焼きを口に押し込んだ。


 私は教師だ。中高一貫の学校のため、中学生と高校生に数学を教えている。この学校が生まれて間もないころから勤めているから、もう二十年は経っているだろうか。教師陣の中でも結構長い方だと思う。私にゴマすりをしてくる奴もいるくらいだし。


 その二十年で、幾度となく担任を持った。そして今年は中三の担任となった。数えきれないほどの生徒を迎えてきたし、見送ってきた。けども、やっぱり三月にもなるとこんな私でもちょっぴりは感傷的になる。


「先生、今日の弁当見てくださいよ」

「え、なになに、ウナギ? A5肉?」


 晴斗はるとが私に言った。これはもう何度も仕掛けられた罠だ。結末は分かっている。


「玉子焼きと、目玉焼きどっちも入ってますよ、先生」

「うっげぇ~~、信じらんない。食べ物じゃないでしょ卵は」


 クラスに笑いが起こる。そう。生徒たちは卵料理が大嫌いな私の反応を面白がっているのだ。卵嫌いに関して、別に深い事情があるわけではない。何というか、あの全てが嫌なのだ。


「美味しいのにね、卵」

「いや、卵より杏仁豆腐の方がうまいから」

「え、分かる。杏仁豆腐の形好きだわ俺」


 生徒たちは本当にくだらない話ばかりする。でもたまに爆裂に面白い話をする奴がいるから侮れない。




 そんな時、私はとっくに心の大事な所が機能しなくなっているんだと感じる。




 私は生まれて物心ついたころから健康で、強くて、ふざけていて、淡白だった。淡白というか、非情というか、薄情というか。とにかく、そんな感じだと言われてきた。


 外面には恵まれていた方だが、男には興味がなかった。正しく言うと、他の人に興味がなかった。これが「冷たい」と言われる最大の要因だと思う。


 だから人情が必要とされる教師にも、なりたくてなったわけではない。ほぼほぼ成り行きだ。自分の教わった教師を思い返してみれば、私でもなんとかなるだろうと思っていた。それが大きな間違いだった。


 最初は教科担当だけだったのが、何年も勤めていくうちに担任を任されるようになったのだ。授業だけをやっていれば済む世界ではなくなってしまった。きちんと生徒一人一人を見て、その子の本質を見抜かなければならない。進路が絡んでくるなら尚更。


 最初に担任を持ったのは中二だった。その年の三者懇談は地獄だった。


「先生は生徒に対して冷たすぎるんです。意見を聞こうとしない。この子は傷つきやすいのにどうしてひどくからかうようなことを……」


「授業中に不適切な言葉ばかり使うのは教師としてどうなんですか。生徒に向かって馬鹿って。さすがにおかしいんじゃ……」


「生徒のことどうでもいいとでも思っているんですか?」


 私としての自然体で生徒と接したことが仇となった。生徒と同じ立場で話そうとしたつもりが、親には適当に暴言をばら撒いているように見えたらしい。そりゃそうか。私も子供がいればすぐに分かったことか。


「申し訳ありません。全て私の責任です」


 恐らく、生徒の人数分頭を下げた。


 それから私は人と距離を置くことにした。冗談は言うけれども、盛り上がらない。三者懇談でも深くは踏み込まない。きっと距離にすれば一ミリもないような壁だけれども、この方がずっとずっと安全だった。そうして、ここまで二十年近くを穏便にやり過ごしてきた。


 しかし、慣れとは怖いもの。今年度、この生徒たちが中三になりたての頃、良くも悪くも転機は訪れた。


 その日はいつものように担任のクラスに数学を教えていた。授業の内容は、班で与えられた問題を解いて、代表者が黒板に解法を書くというもの。大体数学が得意な人が書くので、あったとしても数ミスなのだが、その時は四則演算から丸ごと間違っている答案が見受けられた。書いた生徒があまりにも自信満々で去って行くものだから、つい口をついて出た言葉。



「だっせぇ」



 クラスのみんなが私を見た。無意識だったので、一瞬何が起こったのかすら分かっていなかった。数秒して、背骨から凍り付いてしまうような心地がした。


「あ、」


 うまく頭が機能しなくて、舌が口の中で行き先を見失った。どうしよう、どうしようどうしよう、これじゃあ今度こそ、


「あ、僕間違ってるじゃん。ダッセー!」

「……え」


 私の言葉を待つことなく、解法を書いた生徒はそう言って立ち上がった。それを見た生徒たちは一気に顔をほころばせた。


「おい沢野ー、全部間違ってんじゃん」

「え、ガチ気づかなかったわ。先生に感謝」


 その生徒……沢野は、何事も無かったかのように答えを書きなおしたのだ。



 帰りのSHRは気が気じゃなかった。いつ生徒たちの鋭い視線が向けられるかびくびくしていた。


「先生、あんなこと言うと思ってませんでした」

「本当に申し訳ない。謝るよ」

「何で謝るんですか? 面白かったのに!」


 なのに、放課後沢野にかけられた言葉は想像の反対側で。


「面白かった?」

「はい。先生って、あんまり冗談とか、茶化すとか、そういうのやんない人だと思ってたんで。ギャップ? って言えばいいですか?」

「……五十歳のおばさんにギャップを感じるのもなかなかだと思うけどね」

「えっ」

「ん」


 何気ない会話だと思っていたのだが、何やら引っかかるところがあったらしい。沢野は目をかっぴらいて私を指差した。


「ご、五十歳?!」

「そうだけど……」


 沢野の声が大きかったせいで、周りで話していた生徒がわらわらと集まってきた。そして口をそろえて言うのだ。


『あり得ない!!!』


「……そんなに老けてる? 私」

「ぎ、逆です! 僕の母さんよりも若いですよ!?」

「あり得なすぎて泣く」


 生徒たちの関心が私に向けられた。二十年もここにいて初めて味わった感覚。人なんてどうでもいいと思っていたのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。


「おい~、母さんを褒めてやれ~」


 生まれて初めて、人と話せた気がした。




 今思えば、そこまで慌てる言葉でもなかったのかもしれない。でも、当時の私はそれでさえ恐れていた。随分とせせこましい人生を歩んできたものだ。


「せんせー、ぼーっとしてますよー」

「違うの。ちょっと受験生に聞かれた数学の問題を考えてて」

「本当ですかー?」


 教室の後ろの方にある生徒用ロッカーにもたれかかっていた私を、亜美あみがからかう。


「ほんとほんと。最近は骨のある問題が多くて困る困る」

「そうなんですか? 私も頑張ってみようかな」

「まぁせいぜい頑張りたまえ。受験勉強は早く始めたもん勝ちだよ」


 生徒たちはさっさと弁当を食べ終えて、雑談を始めていた。この光景を見るのももう片手で数えられるくらいしかない。中高一貫だからきっとまた校舎内で顔を合わせるし、何度も経験してきたのだから、さほど悲しくないはずなのに。


 なぜ……。





 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





 昼休みが終わると、三年生三クラスみんな楽譜を手にホールへと階段を駆け上がる。今日の午後は卒業式の歌を練習する時間として割り当てられている。曲は3月9日。定番中の定番曲だ。去年だって聞いた。去年の歌はとびきり素晴らしかった。だからこそ、不安だった。生徒たちの歌として聞けるかどうか。


 授業始まりのチャイムが鳴り、伴奏が始まった。ソプラノとアルトが続けて入る。


「流れる季節の真ん中で ふと日の長さを感じます」

「せわしく過ぎる日々の中に 私とあなたで夢を描く」


 ここまで来て、ようやくテノールが息を吸う。


「3月の風に想いを乗せて 桜のつぼみは春へと続きます」


 綺麗な歌声だ。ボリュームも失わず、良く歌えている。


 私は目を閉じる。合唱を聞くと、いつも学園祭を思いだす。朝も、昼も、放課後も、声を合わせた。でも、最初は綺麗な歌声ではあっても、心に浸透するものがなかった。


 みんなで歌詞を読みこんだこともあったし、限界まで口をかっぴらいたこともあった。


 ソプラノの繊細で綺麗な声。人数が少ない中ハーモニーを奏でたアルト。音程に苦しみながらひたすら歌い続けたテノール。


 私が撮った本番の映像を見返すと、手振れがひどかったし、泣き声が混じってしまっていた。


「あなたにとって私も そうでありたい」


 私がまた思い出に浸っている間に、3月9日は終盤に差し掛かっていた。本当に綺麗な声だ。いつまでも聞いていたいくらい。


 だけど学園祭前と同じだ。何かが足りない。


「君たちは本当によく歌っているけれど」


 皆が歌唱後の余韻に浸る中、私の声は無機質に響いた。


「足りないんだよ。なんだろうな、心に響く何かが。去年のような感動が無いの」


 よくもまあ私がこんなことを言えるな、と思う。何年も感動を封印してきた私が。これは自戒だ。


「もう卒業式は近いし、その『何か』が何なのか、考えてきて欲しい」


 素直な生徒たちは、ぱらぱらと頷いた。きっと彼らは自分なりに答えを出してくる。そしてその答えを歌声に乗せて、私に伝えて来る。そう思えるのは、一年間彼らを見て来たから。学園祭での歌声を覚えているから。


「君たちの歌声は、人を動かす力があるから」


 それからも、歌の練習は続いた。





 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





「よし、それじゃあ最後の練習をしよう」


 卒業式当日、朝のSHRを軽く済ませ、歌の練習に取り掛かった。ひかるがキーボードの前に座り、指揮者の文香あやかと目を合わせる。


 伴奏が始まると、みんなは真っ直ぐに文香を見る。ひときわ大きな振りの後、歌が始まった。


 何度も聞いたこの曲を、しかと噛みしめてみる。


「新たな世界の入り口に立ち 気づいたことは1人じゃないってこと」


 去年の四月。今年度も同じように過ぎ去るものだと思っていた。それなのに、気づいたら私はこのクラスの真ん中にいた。今までのような傍観者ではなくなっていた。それだけで、どれほど強くなれたことか。


「あなたにとって私も そうでありたい」


 あぁ。まだ練習なのに。どうして。


 どうしてこんなに寂しいのだろう。


「先生、泣いてる?」

「え」


 歌が終わり、生徒みんながどよめいていた。私は泣いているなんて自覚は一つも無かったのに。


「なっ、泣いてない! 本番前に泣いてたら本末転倒じゃん」


 あはは、と笑ってとにかくごまかす。生徒たちもあまり追及はせず、「ホントか~?」なんて言って笑っている。


「えーと、一旦それは置いておいて。やっぱり君たちの歌は人を動かす。たった一年しか一緒にいなかった私でさえ、鳥肌が立ったよ。もし歌を聞く人が君たちの両親だとしたら、彼らはどう感じるだろうね。十五年。私の十五倍、ずっと君たちを育ててきた彼らは」


「……分かっているとは思うけど、私はずっと一人で生きてきた。家に帰ったら酒を飲んで寝るだけ。守るものがない私は、君たちの両親がどう思うかなんて語れない」


「けどね、私は君たちを引きつれて卒業式会場に入場する瞬間が大好きなんだよ。この子たちは私が育てたんだって、胸を張れるから」


「だから、みんなも胸を張って歩いて欲しい。こんな私と一年付き合って、こんなにも立派になったんだって、両親に見せびらかしてほしい」


 合唱の並びで立っている生徒みんなの顔を見る。四月とはまるで違う顔をしている。みんな、みんな、私の大切な教え子だ。私が育て上げた生徒だ。


「さっ、行くよ!」


『はい!!』





 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





 長いと思っていた一年も、いつか終わりは来る。


 卒業式後のホームルーム。歌い終えたあとに涙ぐんでいた生徒も、すっかりしゃきっとした顔を取り戻した。


「君たちの歌声は、私を動かした」


 教室の中にも、廊下にも、保護者があふれかえっている。視線を感じつつ、私は最後くらい綺麗な言葉を伝えようと慎重になる。


「前の練習のとき、『何か』が足りないとは言ったけど、正直、それが何かは私が一番分かっていなかった。でも、たった今分かったような気がするよ。……ほんとに、気がするだけ。言語化はできない。私国語苦手だし」


 私が授業中散々漢字を間違えてきたのを見ている生徒たちは苦笑いを浮かべる。


「私が一番嬉しかったのはね、あの曲を『君たちの歌』として聞けたこと。あの歌声を聞いたとき、一年君たちと過ごせてよかったって、きれいごとじゃなく思った」


 一度息継ぎ。どうしよう。どうしようもなく怖い。この時間がもうすぐ終わるのが、これまでになく惜しい。


「君たちはこれから、それぞれのm」

「せ、先生、ちょっと待ってください」

「…………ん?」


 最後のメッセージにしようと思っていた矢先、口を開いたのは沢野だった。


「えっと~、多分締めに入るところだと思うんですけど、ここで僕たちに時間をくれませんか?」

「え、え?」

「まぁ戸惑うのも無理ないですけど……。ところで先生、僕たちが学園祭で歌った曲覚えてますか? 金賞を取ったあの曲」

「……えぇ?」


 まずい。戸惑いの声しか出てこない。学園祭で歌った? もちろん覚えている。あのとき私は感動したから。ここまで教師をやっていてよかったとまで思ったのだから。


「あの曲を、最後に贈ります」


 沢野のその言葉を合図に、生徒たちが一斉に席を立った。そして少し経てば、私の周りを生徒が取り囲む形になっていた。みんな、あの曲の楽譜を持っている。


「お、何だか私偉くなった気分だなぁ。どこ見ればいいの?」


 あんまりしんみりするといけないから、出来るだけ笑顔で聞こうと思う。生徒たちが、私の為に用意してくれた歌だ。学園祭から日にちも経って、歌い方も忘れていただろう。練習、してきてくれたのだ。


 ……だめだ。そういうことを考えるとすぐに感情があふれ出てしまう。


 また光がキーボードに指を乗せる。朝とは違う伴奏が流れ始めた。


 ソプラノとアルトが同時に歌い始める。最初は後々の盛り上げのために控えめに歌う。何度も確認したことだ。


 一フレーズを歌いきったところで、テノールがやって来る。この曲は歌詞が長く、一音にこめられる文字数が多いのもあって、リズムには苦戦した。


 懐かしい日々。歌が進むにつれて、あの頃がまざまざと思いだされる。私は今まであのときほど完成された合唱を知らない。これだけは断言できる。


 それなのに今はどうだ。テンポはぐちゃぐちゃだし、音程も外れているし、強弱なんてあったもんじゃない。



 でも、私は今までこのときほど心に響く合唱を知らない。



 みんな、泣いているのだ。それでも一生懸命に歌うから全部ぐちゃぐちゃになってしまっている。涙をこぼしてうつむく友に肩を貸すりん。目を何度もこする、いつもは生意気ばかりの瑛太えいた


 かく言う私も、もう生徒たちの顔を直視できていない。ななめ上を向いて、涙が出ないように唇をかんでいる。


 私が生きている世界にどれだけの価値があるものかと、何度も思った。もしかしたら無意味でしかないんじゃないかと、何度も思った。だけど君たちと出会って、私は大事なものを取り戻した。それはきっと、私が忘れかけていたあたたかさだ。


 いつか、今以上に寂しくなるときが来る。そのときのために、今は君たちを強く焼きつけていたい。


 そして君たちからもらったあたたかさを秘めた心であれたら。これからを生きて行けたら。


 私は……。




「先生」


 歌が終わった。私は泣いていた。


『一年間、ありがとうございました!』


 全方向から生徒たちの声が聞こえる。答えようとびしょびしょになった顔をぬぐう。


「みんな、」


 鼻をすする音ばかりが教室を満たす。


「ありがとう」


 沢野から花束と色紙を受け取る。大事に大事に抱きしめる。


「心からのありがとう、だよ」


 人は、こんなにもあたたかいのか。


 私は、こんなにもあたたかいのか。










※レミオロメン様の3月9日の歌詞を一部引用させていただきました。

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あの曲 しろみふらい @shiromifurai

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