回想:追憶のユークロニア 秋
私の中の狂った人格が泣き続けている。ああ、でも心は傷まないよ。
だって、こんなヒト、知らないもの。家を壊されたのも、仲間を殺されたのはこの人格のこと。私は——。
そう、思い込んでやり過ごそうとしたのが間違いだったのだろうか。ともかく私は、ずっとずっと考えている。
自分の過去を。
零雨の原点、小雨と呼ばれていた、あの頃の事を。
「お母様!」
少女が畦を走る。減速して、少女は優しく優しく、淡い夕陽色の髪の女人に抱きついた。
「あら、小雨。どうしたの?」
黄昏の瞳の王妃は愛娘に微笑む。小雨は胴乱を開けて捕まえた家守を母、夕霧に見せる。
「見て見て!」
「あらあら、家守ね。寒い時期に珍しいわね」
「そうなの?」
「もう秋でしょう? この子達は寒がりだから、暖かいところに隠れているの。……ふふ、よく目を見てみて」
「め?」
「そう。星が散ってるみたいでしょう?」
「うわぁ! 本当だ、気づかなかった!」
夕霧は微笑んだ。目をきらきらと輝かせて家守の目を覗いているのが本当に可愛らしい。
「小雨、また葉っぱをくっつけてきたのね」
「あ、森の中通ってきたからかも」
夕霧は眉根を寄せた。
「秋の森を通ってきたの? 熊もいるから気をつけなさいね?」
髪の毛に絡んだ葉を梳くようにして取り除くと、姫は髪を解いて手櫛をかけた。
「わー、お母様ありがと!」
身を翻した姫を、夕霧の護衛として城下に降りていた弦月が呼び止めた。
「まだ付いてます! 待ってください!」
「えー、もう良いじゃん」
面倒くさがる姫を叱りつけながら弦月はが葉を摘み出す。夕霧はくすくすと笑った。かなり歳の離れた兄妹の会話を見聞きしているようで、楽しかった。
「姫、森を通ったってことはまた共も付けずに出ていらっしゃったのですね?」
弦月が怖い顔をして姫に言った。それにあっけらかんと小雨は笑った。全く怯えていない。
「うん! 帯刀してるし、この国の人はみんな優しいから大丈夫だよ! 友達と遊んできただけだもん」
確かに、
「そうだとしても共ぐらい付けてください」
「だって、そんなのいたら『品がない』って言われて、みんなと遊べなくなっちゃうもん。それに『じょーか』のことを知っていれば『せーじ』に役に立つって、お母様が言ってたよ」
「王妃様……」
恨めしげな声に夕霧は軽やかに笑った。
「あら、それを最初に言ったのは王よ? 私みたいな地方貴族のじゃじゃ馬を王妃にする為に色々言ったのよ。地方だからこそ政治の欠点が分かっているはずだーとか、地方だからこそ首都とは違う見方があるはずだーとか。田舎の貴族の娘なら街の様子をよく知っているから政治の役に立つはずだーとかね。一体何回本人の前で田舎やら地方やら言えば気が済むのかって、後で冷やかしたわ」
「王妃……」
頭が痛そうな弦月を尻目に夕霧は家守に手を差し伸べた。一つ瞬きをした家守は、する、と夕霧の手へ跳んだ。家守は夕霧の指に絡む。夕霧が持つ魔法は生き物に警戒されない魔法だった。これはある一定の効果を常に放っている。
「どこにいたか、案内してくれる?」
「もちろんです、お母様!」
我が子は畦を軽快に走る。そしてはたと振り返った。
「あ、しまった!」
すぐに引き返してきて、母の速度に合わせた。
「ごめんなさい、忘れてた」
「大丈夫よ。ありがとう」
夕霧はその頃、新しい命を抱えていた。
小雨は距離が離れれば立ち止まって、近づけば跳ねるように進む。やがて見えてきた王居を小雨は指差した。
「城の馬小屋のね、壁にいたんですよ!」
三人で城の跳ね橋を渡り、馬小屋までゆっくりと歩く。兵士たちが二人に気づいた者から頭を下げていく。馬小屋の壁に家守を逃せば、それは天井にするする登っていく。
「あ、」
夕霧は小雨に天井の隙間を指さしてみせた。ちょうど家守が収まっているあたりだ。
「ほら、見える? 卵の殻よ」
「本当だ! でも、みんな出ていった後?」
「そう。五月とか、七月にはまだ中に居ると思うわ」
「へぇー! また観に来ようっと」
夕霧と弦月は顔を見合わせて笑った。
夕霧は小雨の手を引いて城に入る。国王、零露は今頃書斎にいるだろう。そこへ向かうために、のんびりと歩いていく。寒々しかった廊下は建て直されていく王国に比例して暖かくなっていった。もう、十五で嫁入りしたから、もう十六年前になろうとしている。娘は今、八歳だ。無邪気な笑顔は夕霧たち夫婦からは見出せない。魅せられるほど愛しい娘。
「お父様は最近忙しいのですか?」
娘の質問に夕霧はどきりとした。笑顔を浮かべて見せ、頷く。
「そうね。隣国がこっちを気にしてるから」
「大丈夫なの?」
「ええ。目立った動きはないわ」
「目立ったら駄目じゃないんですか? 相手に見つかったら準備されちゃうもん。だったら、分からないように行動するんじゃないんですか?」
「そうとも限らないわ。威圧——怖がらせるだけなら、目立つべきだわね。ただし、小雨がやる時はちゃあんと相手は選ぶのよ?」
「うん!」
「な、なんて事を教えてるんですか……」
弦月が耐えられなくなったように声を上げた。子供相手に、と口籠もりながら言う彼に、夕霧は不思議そうに首を傾げた。
「だって、大切なことよ? 相手を選ぶのは」
「分かった! 気をつけるね!」
分かっているのかいないのか、無垢な笑顔が夕霧に頷いた。
「……全く……」
弦月の嘆きはその場の誰にも解されなかった。
「どうしたの?」
「弦月、お腹痛いの?」
「……何でもないです」
小雨は優しく、聡い。侍女達を困らせることはあっても、心配させたりはしないし、家庭教師は口を揃えて本当に教えがいのある生徒だと言う。小雨はきっと、天の寵愛を受けた女王になる事は間違いない。
——きっと、三年前のような事を起こさせないような。
夕霧は小雨の声ではっと我に返った。
「お母様? 大丈夫ですか?」
夕霧はぎこちなく笑った。膨らんだ腹に手を添わせてみせる。
「ええ。貴女の弟か妹は元気なようね」
「暖かくしてなくちゃ駄目だよ!」
「ありがとう」
書斎の扉が開いた。零露が顔を出し、破顔した。
「おや、私の小さいお姫様は今日は何処に行ってきたんだい?」
「お父様! 今日は馬小屋にいってきたんです! 家守を見つけたの」
「おお、今度はこの父様も連れて行っておくれ」
「はい! 絶対、約束だよ!」
喋り言葉と敬語が混ざる娘を零露は抱き上げて頬擦りした。夕霧の方を振り返ると、
「新しい家族は元気そうかい? 夕霧も元気かな?」
「ええ、とっても元気。今年の蓄えは十分なようです。ねえ、弦月?」
夕霧が同意を求めた彼も、軽やかに頷いた。
「そうか! 良かったなぁ」
和かにうんうんと頷く国王は、人懐っこくて敬愛される、柔和な人柄だった。娘は面白いお父様、として慕っている。
「お父様! お勉強を見て下さる約束は?」
「おっと、忘れていたよ。さあ、書斎に入って入って!」
不満げにしていた娘は一転、顔を太陽のように輝かせた。
「お父様の秘密基地に入っていいの⁉︎」
「特別にご招待しましょう!」
えへんと咳払いをする国王をぐいぐい押して、小雨は夕霧と弦月に手を振った。とても明るい笑顔で。
「お母様、弦月、それじゃあ
「ええ。頑張ってね」
「うん!」
手を振り返した夕霧は扉が閉まると、送ると申し出た弦月を断って、自室へ戻る方向へ歩き出した。
動きやすい服に着替えて勝手に抜け出してきたから、侍女の
「王妃様! どちらですかあ⁉︎」
新人侍女の清華が呼ぶ声が聞こえた。
夕霧は図書館の中に逃げる。ここは王族以外入れない。そのように魔法で警備されている。一応居る門番の兵士たちに、袖の下の菓子を渡して見逃してもらい、館内の秘密の通路を使って屋上の塔へ上がる。
「涼しい……早く帰らないと医者が来ちゃうわね」
ここも王族や許可を貰った家臣しか入れない。塔から下っていき、自室へと向かう。
「王妃様ぁ⁉︎」
清華がまた混乱気味に叫んでいる。嫦娥が宥める声が聞こえてきた。
「そのうち帰ってくるわ。あの方の事だもの」
「し、しかしっ! 王族のお方で、しかも御懐妊なさっていらっしゃるのに……!」
「そうね。でも、仕方がないわ。だって王がお動きにならないのだもの。ほらみんな、広がっておいて。ああ、
その杏香がいち早く夕霧に気がついた。
「ああっ! 王妃様!」
彼女が上げた大声で夕霧に気がついた清華が息を呑み、安心したように泣き出した。
「お怪我や体調の変化は御座いませんかっ!」
杏香が走りながら問いただし、返答を聞くより前に脈を取り、熱がないか確認し、手脚の怪我の有無を確認している。
「……大丈夫よ、杏香。ちょっとした散歩」
「安静に、とあれ程言いましたのに!」
「怪我なんかしてないわ」
「王妃様は私の命を奪おうと仰るのですか?」
目を潤ませて杏香は言う。面食らった夕霧は首を傾げる。
ああ! と劇的に杏香は顔を覆ってみせる。夕霧は一歩引いた。
「
「杏香……あのねぇ」
「首と胴体が泣き別れになってしまいます……! 斬首ですよ! ああ、王妃様、どうかご慈悲をっ!」
「あのね、杏香……貴女ね……」
「いいえ、王妃様。杏香の言うことは決して嘘では御座いません。外出はなりませんと、あれほど申し上げましたのに。もうすぐ冬です。外出はおやめくださいませ」
嫦娥が言うのに、夕霧は抗議の声を上げた。
「杏香の発言の後半部分についてはどう説明するのかしら? 詭弁だと思うのだけれど?」
「怪我をなされて、それを悪化させては国の一大事。せめて御身が軽くなってからお願いいたします」
「無視なのね」
嫦娥の説教を長々と聞いていれば、もう、夕餉の時間だ。急いで出ようとすると着替えに連行され、思ったより時間を取られてしまった。嫦娥と連れ添って食堂に入ると、娘と夫はもう席に着いていた。二人ともが一様にほっとした表情なので苦笑を浮かべる夕霧に、それ見たことかと嫦娥の視線が突き刺さる。向かいの弦月も同じような視線を送ってきている。
「遅れて申し訳ございません」
「いやいや、王妃の体調が一番だよ。さあ、いただこうか」
侍女達から謹慎を言い渡された夕霧は本を読んでいた。
悪阻は首を捻りたいほど軽い。この子は夕霧にとって三回目の出産となる。第一王位継承権を持つのは第一王女の小雨。二番目がこの子だ。王に側妃や愛妾はない。妃は唯一夕霧だけだった。本を捲る手が止まる。
昔、第一王位継承権を持っていた第一王子は国から望んで出て行き、死んでしまった。これが、三年前——雪が降る頃だった、二月二十九日の出来事。九歳の第一王子は突如、国を出る、と宣言して消えた。その四日後、王子らしき子供が堀でズタズタにされて見つかった。誰なのか分からない程ぐちゃぐちゃにされていたそうだ。顔は分からなかったが、王子の服を着ていた上、年頃や髪色が同じだったから王子と断定された。普通は魔力で判断できるのだが、八から十歳の間は魔力がうねるように不確定で、刻々と変わっているのだ。この不安定期ではその判断の仕方は使えない。
王子はこの国特有の鏡魔法が使えず、愛されながらも民の目を気にしてかなり思い悩んでいたようだ。どうして、そのことに気づけなかったのか。
国中が喪に付した。王が珍しく取り乱し、民も王の態度に従って、国が真っ黒になった。
そのどん底で、第一王女の功績が光り始めた。鏡魔法を発現、喪に付した国を上向けるべきだ、その方が兄も喜ぶだろうと
その大概は冢宰が補助したのだが、四、五歳の幼女は兄の墓に花を庭で摘んでは贈り続けていた。これは自発的に始めたと聞いている。
「あの子に比べて……情けないわね」
呟くと、清華が不安そうにこちらを見た。
「お大事にしてくださらないと、王女様や陛下が悲しみます。どうか、お休みになってください」
夕霧は笑って見せた。大丈夫よ、と伝わるように願いながら。
「ええ。ありがとう、清華」
「まあ! 王妃様は私のような者の名まで覚えていて下さっているのですね!」
嬉しそうに清華は手を合わせた。顔色が明るくなったように見えるのは勘違いだろうか。
清華が入ってから二週間が経っている。そんなに期間があるのなら、名前ぐらい覚えるのは容易い事だ。
「当たり前よ。これからもよろしくね」
はい、と感極まったように涙ぐみながら清華は勢いよく頷いた。
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