神様と狼人間

深水彗蓮

序章: 過去

 終わらない悪夢とは、何だろうか。


 私にとって、私自身が終わりようのない悪夢。

 いつまでも忘れられなくて、苦しくて、愛おしい。

 懐かしい思い出。大切な思い出。

 寂しい思い出。愛おしいから苦しい思い出。


 ……壊れかけた射影機で映像が回されるように。

 少女の指が白い玉を拾い上げる。彼女はそっと位置を変えた。わくわくしながらそれを振りかぶって——。

「えいっ!」

「うわぁっ!」

 若い男が慌てて少女が投げた雪玉を回避した。少女は歓声を上げる。

「凄い! 後ろから狙ったのに!」

「そわそわしていらしたのは丸わかりです!」

 少女は子供特有の鈴のような高い声で笑いながら雪玉を投げた。

「やあっ! 食らえ◼️◼️っ!」

「や、やめてください◼️◼️様!」

 口では抗議しつつも男も笑いながら少女に手加減した玉を投げる。

「◼️◼️、本気出してよ!」

 少女に言われて困ったように男は苦笑した。

「駄目ですよ。◼️◼️様は……」

 少女に親しげに呼ばれたくせに、男は敬称をつけて少女を呼んだ。

「なんで? いいじゃん、誰も見てないし」

 悪びれもせず、少女は言い放つ。

「嫌ですよ。たかが遊びで首が飛ぶなんて」

「私が◼️◼️を守るから大丈夫!」

「そう言う問題じゃ——」

「雪遊びか? 混ぜてくれ!」

 無邪気な声に若い男は慌てて新しく寄ってきた男を制止した。

「駄目です! だって貴方様は◼️でしょう⁉︎ 公務に支障が出ます! やめてください!」

 咎める声にやってきた男は悲しそうに眉を下げた。

「駄目か?」

「お父様、仔犬みたーい」

 きゃらきゃらと子供は笑う。

「もう……」

 少女の言葉に若い男はがっくりと肩を落とし、父親は何故か少し嬉しそうに「そうか?」と尋ねてきた。

「うん! ねえ◼️◼️、ちょっとぐらい三人で遊んだって良いでしょ?」

「おお、流石我が娘だ! なぁ◼️◼️、私も混じって良いだろう?」

「……そう言われたら僕の立場じゃ止められないでしょ。後で怒られても知りませんけど。なので、せめて怪我しないように——」

「えーいっ!」

 少女が投げた雪玉を、反射的に動いて彼は蹴った。靴の上で雪玉が弾けて崩れる。

「ちょっと、◼️◼️様! 話の途中です!」

「あははっ! ◼️◼️も早く投げなよ!」

 少女は雪玉を握った手を振る。

「はぁ……もう、◼️◼️様ったら……」

「遊びに制約なんてつけたら、詰まらないんだよー!」

 溜め息を吐いて、彼は速球を投げた。

「はやぁい!」

 少女は雪の上で飛び跳ねた。

「◼️◼️、凄い凄い!」

「ぬう、私も負けないぞ!」

 ぶん、と音をさせて父も玉を投げた。

「うわぁ! 凄い雪合戦になりそう! 二人とも頑張れー!」

 少女がはしゃいだ声を上げると、その光景が歪んだ。歪んで、それは渦を作る。


「嫌だ……」

 痛い。痛い思い出。思い出すだけで辛い。

「やめて……」

 強烈な後悔と激烈な懺悔と、身を削るような怨恨。

「待って、嫌だ……!」

 忘れてしまいたいような。絶対に忘れてはいけないような。


 す、と焦点が合う。少女が一人で立っていた。


 雪の混じった、細かな雨が降っている。燦々と灯りが輝き、笑いが響いているべきこの街は、人の骸で覆われていた。

「……」

 雨が降る。

 彼女が知る、どの時より静かで寂しいその街の中へ。どんよりと濁った空と、雨粒と、荒廃した街がまだ小さい少女に重く重くのしかかっている。

「……? なん、で……」

 細い線香の煙のような声は雨に掻き消された。ぼうっと長い間佇んでいた少女は、思い出したようにそっと歩を進めた。

 水が少女を打つ。とめるように、気遣うように。

 足元を見てはいけないことは、それだけは教えてくれる人が居なくても解っていた。

「みんな! どこなの? お父様? お母様! ◼️◼️! 聞こえないの?」

 それから、どれだけ喉を嗄らしても、誰も迎えにきてくれないことも。

 ああやって雪合戦をした人も。優しく髪を梳いてくれた人も。本を読んでくれた人も。一緒に悪戯をして遊んだ人も。


 死の気配がしていた。


 果敢にも、驟雨しゅううが全てを洗い流そうとしていた。

 けれど、その雨は全く少女に届いていなかった。

 死者の声と同じように。

 透明な指先が行き場をなくして少女の後を追う。

 ずっしりと濡れた服が張り付いて重い。彼女は失われた幾万の命と、悔恨、そして義務をその小さな背に背負わなくてはならなくなった。

「みんなー! ねえ、誰かー‼︎ 誰かいないの⁉︎」

 全く下を見なくても、風景を目に映さなくても、それでも、彼女には燃えた家や紅く染まった人、その嫌な鉄の臭いが感じ取れた——否、感じ取れてしまった。死の色が色濃くその国に垂れ込めている。


 焦土と化した国土を踏み締め、少女は雨を仰ぐ。その目は空虚だった。雨には潤せない。どんな娯楽も穴を埋められない。それほどの空虚。

「どうして……?」

 彼女は狂うほどの激情をどうしようもなく抱いて、帰り着く場を求め、そらを仰いだ。

悲しみより、当惑と不安がその頭をもたげていた。

 犯人を呪う事を思いつかないほど、少女は純粋無垢だった。ただただ、どうしてこうなったのか、天に問いかけていた。

 雨が降る。

 弔いの雨が地を叩く。


 透明な指先が苦しむように悶える。

 ——ごめんなさい。

 どうか許して。

 ごめんなさい。側に居れなくて。

 指がきつくきつく握り締められる。

 ごめんなさい、貴女を守れなくて。

 ごめんなさい。

 悔しさが溢れた。


 ごめんなさい。



 静寂しじまに雨が降る。

 そこには凄惨がある。

 ◼️◼️が泣く。

 雨が泣く。

 呪詛が刻まれる。


 ——君の所為だよ。

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