第2話 桜の宮
【姫神之宮】
咲耶姫との御縁――それは今でも続いている。厳密に始まったのはこの初出社が原点だ。
伊勢を出てからいったん休みをもらい――彼岸という儀式であったので、何もしないが初めての刺し身を味わった。そして初めて親父と酒を酌み交わした。
日本酒は飲めなかったのでビールだった。親父と飲む酒は最高だ。
いま――この時点ですでに老齢となり、いつのまにか父が消えていて、どうしてもう少し一緒にいてやれなかったのだろうと、寂しいばかりである。
あれから親父としこたま酒を飲んだが、なぜかあの彼岸に飲んだビールの味が忘れられない。
人生初という出社は不安と緊張感でいっぱいだった。
だんだん電車が神社に近づいて来ると、さすがに心臓が高鳴って迫り上がって来そうだ。
――そんな時、いきなり富士山がニョキッとその姿を現した。
忽然と姿を現した純白の着物を着た
緊張と不安でいっぱいだった俺の心に命を吹き込んでくれたのは――花咲くような明るい笑顔の富士山だった。ひょっとして、俺を勇気づけてくれるのだろうか。まるで富士山が歓迎しているかのようにも思えた。
もし、木花咲耶姫命が本当にいるのだとしたら――もしかして満面の笑みを湛えて俺を歓迎しているのだろうか?
桜之宮駅を下りて街に一歩踏み出すと、まず目に飛び込んでくるのが、巨大な大鳥居だ。
この大鳥居はある宗教団体と論争を巻き起こし、敗れて撤去され今はもう無い。神代の昔からある由緒正しいお社が、あとから来た
――咲耶姫はこの宗教団体が特に嫌いらしい。そんな一面を垣間見る事件に度々出くわすことになるのだが――それは追々語っていこう。
その大鳥居をくぐりしばらく歩くと大通りにぶつかる。それを左へ行くと右手――富士山側――に桜之宮が見えてくる。
仕事と生活の場でもある社務所の門を潜って、ここから実生活がスタートするのだが――緊張していたからなのか、後のことは時系列が混沌としている。
ここ三日間くらいで様々なことが起こった。
宮司さんや職員さんにあいさつし、装束や神主道具一式を揃えたりした。
いっしょに入社する三人の巫女さんもいたので少しウキウキした。
【神主:一日の日課】
まず出社する――。
大きな神社――神宮とか大社とか言われているところはおそらく規則が厳しいと思う。大きな会社はどこもそうだと思うが、ふだん作業着で仕事をする場合も出社時は背広(死語ではあるがスーツのこと)着用で、着いてからロッカーで作業着に着替える。
俺のアパートは境内地から数十メートルだったが、さすがに白衣袴で出勤は出来なかった。言われていたわけではないが、正体バレバレというのは流石にまずい。
はじめはカッコつけて背広で出社したが――そのうち面倒くさくなってラフな格好になり、たまにジャージで出社ということもあった。
俺が配属されたのは祭儀課で、いわば神社ではエリート中のエリートだ。その点で一緒に入った同僚たちには羨ましがられた。
先輩から俺に任せられたのは――祝詞の大量生産――
このすべてを一日でこなすのはけっこう大変なのだが、まず祝詞は結婚式・地鎮祭・交通安全が主で、件数が多い分消耗が早い。祝詞は厚手の紙なので奏上するたびに、巻き広げたり巻き閉じたりしまくるので消耗が激しい。
ということは俺さまがせっせと書きまくるしかないのだ。この仕事は俺が辞めるまで追いつくことはなかった。
紙垂は神社なのでいろんなところに使われる。みなが知っているものとしてはお祓いのときにバサッバサッとやるアレである。
正式には
紙垂の代表的な形はしめ縄に等間隔で取り付けられた和紙で、大きなものは鳥居や正殿の前に取り付けられたぶっ太いしめ縄に取り付けられたり、ちいさなものはよく街里で見かけるように、神域と外界を縄張りで分け隔て、細い縄を張り巡らしてそこにも紙垂を取り付けたりと、数を揃えるのが大変だ。
――警察のキープアウトの黄色テープのように、ここからは神聖な領域だぞ!と指し示すように結界を作っているのだ。
しかし、あれを俺ひとりでやれと言うのだから、今で言えばパワハラだ。
それでも俺は与えられた神聖な仕事を喜々とやり通したのだった。……と思う。
榊もめちゃくちゃ消耗する神具で、
本殿ばかりではない――外祭という祭事もあり、いわゆる地鎮祭で外に祭事器具一式を用意し、神事を施工する――そのときも榊がいるのである。
地鎮祭では神の
いわば――全体的には榊は大量消費なのである。その準備が
このように祭儀課の仕事はひとりでやるには過酷な仕事で、俺がいた三年間でいつも仕事のほうが足が速く、汗だくで仕事を追いかけているのが俺の姿であった。
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