香澄の決心
写乱
第1話 事件
アスファルトの熱気が、じりじりと足元から這い上がってくる。梅雨が明けたばかりの七月。空は高く、どこまでも青く澄み渡っているけれど、その下に広がる世界は、まるで巨大な蒸し器の中にいるみたいに、湿った熱気に満ちていた。
宮下香澄は、真新しいセーラー服の襟元を小さくぱたつかせながら、通学路を歩いていた。高校に入学して三ヶ月。ようやくこの制服にも、新しいクラスの空気にも慣れてきた頃だ。肩より少し下まで伸びた黒髪が、首筋に張り付いて少し鬱陶しい。背丈は155センチと、クラスの中でも平均的。どちらかといえば痩せている方で、それが少しだけコンプレックスでもあった。
「香澄、おはよー」
後ろからかけられた明るい声に、香澄はびくりと肩を揺らした。振り返ると、同じクラスの佐々木美咲が、にこにこと笑いながら小走りで近づいてくるところだった。
「あ、美咲。おはよ」
香澄は努めて穏やかな笑顔を作って応える。心臓が、まだ少しだけ速く打っていた。理由はわかっている。美咲に声をかけられる直前、香澄は歩道の端、植え込みの縁石近くに咲いていた小さな紫色の花に、そっと左足のローファーを重ねようとしていたのだから。
香澄には、秘密があった。物心ついた頃から、なぜか道端の花や、足元を這う小さな虫を踏み潰すことに、言いようのない喜びを感じてしまうのだ。きっかけは、もう思い出せない。公園の砂場で遊んでいた時だろうか、それとも家の庭でだろうか。ただ、柔らかい花びらが靴底の下でくしゃりと潰れる感触や、硬い虫の殻がぱきりと割れる微かな音が、幼い香澄の心に奇妙な満足感を与えたことだけは覚えている。
もちろん、それが「悪いこと」だという自覚はあった。綺麗な花を摘んではいけない、生き物をいじめてはいけない。幼稚園や小学校で、先生や親から何度も教えられたことだ。だから、香澄はこの行為を誰にも見られないように、一人でいる時にだけ、こっそりと行ってきた。誰にも知られてはいけない、自分だけの秘密。その背徳感が、かえって香澄の心をくすぐるのかもしれなかった。
「今日、数学の小テストだって。勉強した?」
美咲が隣に並んで、屈託なく話しかけてくる。
「うーん、一応教科書は見たけど…自信ないなぁ」
香澄は曖昧に笑って答える。本当は昨夜、それなりに時間をかけて準備したのだが、ここで「ばっちり」と答えるのは、自分のキャラクターに合わない気がした。香澄は、クラスの中では「おとなしくて、真面目ないい子」という立ち位置にいる。特に目立つタイプではないけれど、誰とでも当たり障りなく話せるし、先生からの受けも悪くない。友達だって、美咲をはじめ何人かいる。みんな、香澄のことを優しくて、穏やかな女の子だと思ってくれているはずだ。誰も、香澄が足元の小さな命を密かに弄ぶ、奇妙な喜びを抱えているなんて、夢にも思わないだろう。
学校へ向かう道すがら、香澄の視線は無意識に足元へと注がれる。歩道の割れ目に健気に咲く黄色いタンポポ。ブロック塀の根元を忙しなく歩く黒い蟻の行列。植え込みの葉の裏で雨露を弾く、小さなカタツムリ。それらを見つけるたびに、香澄の心臓は小さく跳ね、足の裏がむずむずとした衝動に駆られる。でも、今は隣に美咲がいる。決して気づかれてはいけない。香澄はきつく唇を結び、意識して視線を前へと向けた。
普段、香澄が好んで履くのは、真っ白なアンクルソックスに、フラットな黒いエナメルパンプスだ。少しだけガーリーな、ふんわりとしたスカートやワンピースに合わせて、その靴を履くのが好きだった。つやつると光る黒いエナメル。その靴底には、滑り止めのためだろうか、ギザギザとした細かな凹凸がびっしりと刻まれている。この靴で、アスファルトの上に落ちた木の実や、乾いた土の上に咲く小さな草花を踏むときの感触が、香澄は特に気に入っていた。柔らかいものが、硬い凹凸によって容赦なく潰されていく感覚。それは、学校指定の、底が比較的平らなローファーでは味わえない、特別なものだった。
もちろん、学校にいる間はローファーだ。白い、くるぶし丈の指定ソックス。これも清潔感を保つように気をつけている。香澄のロッカーには、いつも替えのソックスが一足入っていた。体育の後や、雨で濡れてしまった時のため。…そして、万が一、秘密の行為の痕跡がついてしまった時のためでもあった。
教室に着くと、朝のホームルームが始まる前の、ざわざわとした喧騒が香澄を迎えた。自分の席に着き、鞄から教科書を取り出す。窓の外では、夏の強い日差しがグラウンドを照らし、蝉の声がシャワーのように降り注いでいた。平和で、平凡な高校の一日の始まり。この日常の中に、自分の暗い秘密が紛れ込んでいることが、香澄には時々、とても奇妙なことのように思えた。まるで、美しい刺繍が施された布の裏側に、一本だけ、醜く絡まった黒い糸が隠されているような。
授業が始まると、香澄はノートを取りながらも、時折、窓の外へ視線を逃がした。青い空、白い雲、緑の木々。その下に広がる、小さな生き物たちの世界。自分の足元にも、きっとたくさんの小さな命が蠢いている。そう思うと、足の裏がまた、むずむずとした感覚に襲われた。早く放課後にならないだろうか。一人になって、あの秘密の感触を確かめたい。そんな思いが、胸の奥で静かに渦巻いていた。
「いい子」の仮面の下で、香澄は誰にも言えない欲望を抱えながら、今日もまた、教室の椅子に深く腰掛けて、息を潜めるようにして過ごすのだった。
授業が終わると、香澄はいつも少しだけ寄り道をして帰るのが常だった。友達と別れ、一人になる時間。それは、香澄にとって解放の時であり、同時に、秘密の扉を開ける時でもあった。
学校から家までの道のりは、いくつかルートがある。その日の気分によって、香澄は通る道を変えた。人通りの少ない路地裏。古びた神社の境内を抜ける小道。川沿いの、草が生い茂った土手。どこも、香澄のささやかな「楽しみ」を実行するには都合のいい場所だった。
その日は、蝉の声が一段と大きく響く、蒸し暑い午後だった。額にうっすらと汗が滲む。香澄は、普段あまり通らない、古い住宅街の中の細い路地を選んだ。アスファルトはひび割れ、その隙間から逞しく雑草が顔を出している。道の両側には、古びたブロック塀が続き、その上から、手入れされているのかいないのか判然としない庭木の枝がだらしなく垂れ下がっていた。
香澄は、ゆっくりと歩きながら、注意深く足元に視線を落とす。今日の獲物は、何だろうか。期待と、ほんの少しの罪悪感が入り混じった、奇妙な高揚感が胸を満たしていく。
ブロック塀の根元に、鮮やかなピンク色の小さな花が一面に咲いているのを見つけた。マツバボタンだろうか。陽光を浴びて、その花びらはみずみずしく輝いている。香澄は、周囲に誰もいないことを確かめると、そっとその花に近づいた。
右足のローファーを、ゆっくりと上げる。白いソックスに包まれた足首が、きゅっと緊張するのがわかった。そして、狙いを定めた一輪の花の上に、靴底を静かに下ろす。
ぐしゃり。
柔らかく湿った感触が、靴底を通して足の裏に伝わってきた。花びらが潰れ、蜜を含んだ茎が折れる、微かな音。香澄は、そのまま体重をかけ、ぐりぐりと靴底を捻るように動かした。ピンク色の花びらは見る影もなく砕け、緑色の汁がアスファルトの割れ目に滲んでいく。
香澄は、ゆっくりと足を離した。ローファーの底には、潰れた花びらの残骸が僅かに付着していた。香澄はそれを、近くの塀の角でこすり落とす。そして、何事もなかったかのように、再び歩き始めた。
胸の奥が、じんわりと温かくなるような感覚。それは決して激しい快感ではない。むしろ、静かで、ひそやかな満足感とでも言うべきものだ。誰にも知られずに、可憐なものを自分の足で踏み躙ったという事実。その背徳的な行為が、香澄の心の渇きをほんの少しだけ潤してくれるような気がした。
少し歩くと、今度は日陰になった湿った地面を、一匹のダンゴムシがゆっくりと這っているのを見つけた。丸々として、硬そうな甲羅を持っている。香澄は、また足を止めた。今度は左足。ローファーのつま先で、そっとダンゴムシに触れる。驚いたダンゴムシは、瞬時に体を丸めた。完全な球体になる。
香澄は、その丸まったダンゴムシの上に、静かに靴を乗せた。最初は、硬い殻の感触が伝わってくる。しかし、香澄がゆっくりと体重をかけていくと、
ぱきっ。
乾いた、小さな破壊音が響いた。靴底の下で、硬いものが砕ける感触。香澄はさらに力を込め、靴底でそれを擦り付けるようにした。完全に潰れたダンゴムシは、もはやただの黒いしみにしか見えなかった。
香澄は、深い息を吐いた。満足感と同時に、わずかな嫌悪感も覚える。なぜ、こんなことをしてしまうのだろう。花や虫に、何の恨みもないのに。むしろ、道端に咲く小さな花を見れば「綺麗だな」と思うし、虫が懸命に生きている姿に感心することだってある。それなのに、踏み潰したいという衝動を抑えられない。
この衝動は、いつから始まったのだろう。本当に、思い出せない。ただ、気づいた時には、それはもう香澄の一部になっていた。まるで、利き腕がどちらかであるかのように、ごく自然に、しかし決して人には言えない秘密として。
家に帰り、自分の部屋に入ると、香澄はまず制服から部屋着に着替える。そして、今日履いていた白いソックスを脱ぎ、裏返して汚れがないか確かめるのが習慣だった。今日は、特に目立った汚れはない。それでも、香澄はそれをすぐに洗濯かごに入れる。たとえ綺麗に見えても、あの行為をした後のソックスを、もう一度履く気にはなれなかった。
机に向かい、宿題を広げる。窓の外は、まだ明るい。けれど、香澄の心は、どこか薄暗い場所にいるような気がした。友達と笑い合っている時も、授業を受けている時も、心のどこかで、あの秘密の衝動が燻っている。そして、一人になると、その衝動に身を任せてしまう。そんな自分が、時々ひどく汚らわしいもののように感じられた。
週末、香澄はお気に入りの白いアンクルソックスと、黒いエナメルのパンプスを履いて、少し遠くのショッピングモールへ出かけることがあった。もちろん、一人で。人混みの中を歩くのはあまり好きではないけれど、新しい服や雑貨を見るのは楽しかった。ガーリーな、淡い色のワンピースや、レースのついたブラウス。そういうものを見ていると、自分が普通の、可愛らしいものが好きな女の子なのだと再確認できるような気がした。
けれど、そんな時でさえ、ふとした瞬間に、香澄の視線は足元へと吸い寄せられる。ショーウィンドウの前に落ちている、誰かが落としたらしい小さなアクセサリー。床のタイルの模様。エスカレーターのステップの溝。それらを見るたびに、あのギザギザした靴底で踏みつけたら、どんな感触がするだろうか、と考えてしまう自分がいる。
もちろん、人目のある場所で、そんなことはしない。できない。香澄は、あくまで「いい子」でいなければならないのだ。周囲に合わせて穏やかに微笑み、当たり障りのない会話をする。その仮面の内側で、誰にも知られない衝動を抱え、孤独に苛まれていることなど、誰にも気づかれずに。
この秘密を、もし誰かに打ち明けたら、どうなるのだろうか。想像するだけで、背筋が寒くなる。きっと、気味悪がられるだろう。軽蔑されるだろう。友達は離れていき、自分は本当に一人ぼっちになってしまうかもしれない。だから、絶対に言ってはいけない。この秘密は、墓場まで持っていかなければならないのだ。
そう思うと、胸が苦しくなる。誰かに、本当の自分を理解してほしい。受け入れてほしい。そんな切ない願いが、心の奥底で小さく震える。けれど、それは叶わない夢だと、香澄は知っていた。
香澄は、今日もまた、自分の部屋の窓から、夕暮れの空を眺める。茜色に染まる空の下、家々の灯りがぽつぽつと灯り始める。どこにでもある、ありふれた風景。その中で、自分だけが、奇妙な秘密を抱えて生きている。その孤独感が、まるで足元に広がる深い影のように、香澄の心を静かに侵食していくのだった。
夏休みを間近に控えた、ある日の放課後。蒸し暑い教室には、まだ何人かの生徒が残って、おしゃべりに興じたり、部活の準備をしたりしていた。香澄も、美咲と、もう一人の友人である中村陽菜と一緒に、教室の隅で他愛ない話をしていた。
「ねえ、夏休み、どこか行きたいねー!」
陽菜が、旅行雑誌のページをめくりながら、楽しそうに言った。陽菜は明るく活発なタイプで、クラスの中でも人気者だ。
「いいね!海とか行きたいな。かき氷食べたい!」
美咲も目を輝かせる。
「香澄は?どこか行きたいところある?」
話を振られて、香澄は少し戸惑いながら答えた。
「うーん、私は別に…近場のカフェとかで、ゆっくりお茶できればそれでいいかな」
「もー、香澄はいつもそうなんだから。もっとアクティブになろうよ!」
陽菜が、からかうように香澄の肩を軽く叩く。香澄は苦笑いを浮かべるしかなかった。本当は、賑やかな場所は少し苦手なのだ。人混みも、大きな音も。できれば、静かな場所で、一人で過ごしたい。でも、そんなことを言えば、また「つまらない」と思われてしまうかもしれない。
そんな会話をしている時だった。開け放たれた窓から、ブーンという羽音と共に、一匹の大きなカナブンが迷い込んできた。緑色に鈍く光る甲虫は、天井近くを何度か旋回した後、床にぽとりと落ちた。
「きゃっ!」
虫が苦手な美咲が、小さな悲鳴を上げて椅子から飛びのいた。
「うわ、でっかいカナブン…」
陽菜も、少し顔をしかめてそれを見ている。
カナブンは、床の上でひっくり返り、足をじたばたと動かしていた。起き上がろうともがいているようだ。教室に残っていた他の生徒たちも、その小さな騒ぎに気づき、遠巻きに様子をうかがっている。
「どうしよう、これ…」
美咲が不安そうな声を出す。
「誰か、外に出してあげてよ」
陽菜が言うが、誰も率先して動こうとはしない。
その時、香澄の心の中に、ふと、いつものあの衝動が鎌首をもたげた。目の前で、もがき苦しむ、硬そうな甲羅を持った虫。それを、このローファーの底で踏みつけたら…? どんな音がするだろう。どんな感触がするだろう。
その考えは、ほんの一瞬、香澄の心をよぎっただけだった。すぐに「いけない」と打ち消す。ここは教室だ。みんなが見ている。それに、いくらなんでも、こんな大きな虫を、友達の前で踏み潰すなんて…。
しかし、次の瞬間、香澄の口から、思ってもみなかった言葉が滑り落ちた。それは、衝動を無理に押さえつけようとした反動だったのかもしれない。あるいは、心のどこかで、この奇妙な感覚を誰かに、ほんの少しでも理解してほしいという、歪んだ願望があったのかもしれない。
「…なんかさ、こういうのって…踏んだら、ちょっとだけ…気持ちよくない?」
言ってしまってから、香澄ははっと息を呑んだ。しまった、と思った。けれど、一度口から出てしまった言葉は、もう取り消せない。
教室の空気が、一瞬で凍りついた。
美咲と陽菜が、信じられないという表情で、香澄を見つめている。他の生徒たちの視線も、香澄に突き刺さるのを感じた。
「え…? か、香澄…? いま、なんて…?」
美咲が、震える声で聞き返した。その顔は、明らかに戸惑いと、そして、かすかな嫌悪感を浮かべていた。
「いや、あの、違うの、そういう意味じゃなくて…」
香澄は慌てて言い訳をしようとしたが、言葉がうまく出てこない。顔が、かっと熱くなるのを感じた。心臓が、警鐘のように激しく鳴り響いている。
「踏んだら気持ちいいって…どういうこと?」
陽菜が、冷ややかな声で問い詰める。さっきまでの親しげな雰囲気は、もうどこにもない。その目は、まるで汚いものでも見るかのように、香澄に向けられていた。
「虫を、踏み潰すのが…快感だって言いたいの?」
「ち、違う、そうじゃなくて…なんていうか、こう、プチってする感触が…」
香澄は必死に説明しようとするが、言えば言うほど、墓穴を掘っているような気がした。足元でじたばたしているカナブンが、まるで自分の愚かさを嘲笑っているように見える。
「…気持ち悪い」
ぽつりと、美咲が呟いた。その言葉は、小さな声だったけれど、静まり返った教室の中では、やけに大きく響いた。
「え…?」
香澄は、美咲の顔を見た。そこには、先ほどの戸惑いではなく、はっきりとした拒絶の色が浮かんでいた。
「だって、そんなの…おかしいよ。虫がかわいそうじゃない。それを気持ちいいなんて…」
美咲の声は、震えていた。それは、恐怖からなのか、それとも怒りからなのか。
「…変態みたい」
陽菜が、吐き捨てるように言った。その言葉は、鋭いナイフのように、香澄の胸に突き刺さった。
変態。
その一言が、香澄の世界を粉々に打ち砕いた。ああ、やっぱりそうなんだ。自分は、普通じゃない。異常なんだ。みんなが眉をひそめるような、気持ち悪い感覚を持っている、変態なんだ。心の奥底で、ずっと恐れていたことが、現実のものとなってしまった。
香澄は、何も言い返すことができなかった。ただ、俯いて、唇をきつく噛みしめる。涙が、じわりと目に滲んできた。けれど、ここで泣くわけにはいかない。泣けば、さらに自分の異常さを際立たせてしまうような気がした。
「ご、ごめん…なんか、変なこと言って…」
かろうじて、それだけ言うのが精一杯だった。声が、震えているのが自分でもわかった。
「…私、今日、用事あるから先に帰るね」
美咲が、目を合わせようとせずに、そそくさと鞄を手に取った。
「あ、私も…」
陽菜も、それに続くように立ち上がる。二人は、足早に教室を出て行った。まるで、香澄から逃げるように。
残された香澄は、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。他の生徒たちの、好奇と非難が入り混じったような視線が、背中に突き刺さるのを感じる。足元のカナブンは、いつの間にか体勢を立て直し、壁際に向かってゆっくりと歩き始めていた。
もう、ここにはいられない。香澄は、震える手で自分の鞄を掴むと、逃げるように教室を飛び出した。廊下を走りながら、涙が止めどなく溢れてくる。
気持ち悪い。変態。
友達の言葉が、頭の中で何度も何度も繰り返される。それは、香澄が自分自身に対して、心の奥底でずっと抱いていた疑念であり、恐怖そのものだった。それが、他人の口から、はっきりと形を持って告げられたのだ。
どうして、あんなことを言ってしまったのだろう。ほんの一瞬の気の迷い。あるいは、心のどこかにあった甘え。それが、取り返しのつかない事態を招いてしまった。
もう、美咲や陽菜とは、今まで通りには話せないだろう。クラスの他の子たちも、きっと噂話をするに違いない。「宮下さんって、ああいう子だったんだ」「ちょっと怖いよね」。そんな声が聞こえてくるようだ。
香澄は、校門を出ると、家とは反対の方向へ、ただひたすらに走り続けた。どこへ向かっているのかもわからない。ただ、この息苦しい現実から、少しでも遠くへ逃げ出したかった。夏の午後の強い日差しが、涙で濡れた頬を焼くように照りつけていた。
どれくらい走っただろうか。息が切れ、足がもつれて、香澄はその場に崩れるように座り込んだ。そこは、見慣れない公園の、古びたベンチの前だった。蝉の声は相変わらずけたたましく鳴り響いているけれど、香澄の耳にはもう、それすらも遠い世界の音のようにしか聞こえなかった。
膝に顔をうずめ、声を殺して泣いた。嗚咽が漏れるたびに、肩が震える。悔しさと、悲しさと、そして、どうしようもない自己嫌悪が、ぐちゃぐちゃになって胸の中で渦巻いていた。
変態。
あの言葉が、呪いのように心を縛り付ける。やっぱり、自分はおかしいんだ。普通の女の子じゃない。花や虫を踏み潰すことに、微かな喜びを感じてしまうなんて。そんな人間は、誰からも理解されず、嫌われて当然なんだ。
幼い頃から、ずっと感じていた違和感。周りの子たちが無邪気に遊んでいる中で、自分だけが抱えていた暗い秘密。それを隠し、「いい子」の仮面をかぶり続けることの息苦しさ。いつか、誰かにこの秘密を知られたらどうしようという、漠然とした恐怖。それが、今日、最悪の形で現実になってしまった。
美咲や陽菜の顔が、脳裏に浮かぶ。さっきまでの、楽しそうな笑顔。それが一転して、驚き、戸惑い、そして冷たい拒絶へと変わっていった瞬間。彼女たちの目に映った自分は、きっと、得体の知れない、気味の悪い存在だったに違いない。もう、二度と、あの屈託のない笑顔を自分に向けてくれることはないだろう。
そう思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。友達を失うことの怖さ。孤立することへの恐怖。これから、学校でどうやって過ごせばいいのだろう。みんなが、自分のことを噂しているかもしれない。冷たい視線を向けられるかもしれない。その中で、平静を装って「いい子」を演じ続けるなんて、できるのだろうか。
ふと顔を上げると、空がにわかに暗くなっていることに気づいた。さっきまでの青空はどこへやら、厚い灰色の雲が空全体を覆い尽くしている。生暖かい風が吹き始め、木の葉がざわざわと揺れた。
ぽつり、ぽつりと、大粒の雨が落ちてきた。それはすぐに、地面を叩きつけるような激しい夕立へと変わった。香澄は、ベンチに座ったまま、降りしきる雨に打たれていた。制服が、髪が、あっという間に濡れていく。けれど、立ち上がって雨宿りをする気にもなれなかった。冷たい雨粒が、火照った体を冷やしていく。それが、今の香澄にはむしろ心地よく感じられた。まるで、この雨が、自分の内側の汚れた部分を洗い流してくれるような、そんな錯覚さえ覚えた。
雨音に混じって、蝉の声が聞こえなくなる。代わりに、地面を叩く雨の音と、遠くで鳴る雷鳴が、公園を満たしていた。
香澄は、雨に濡れながら、ぼんやりと考えていた。もう、誰にも、この秘密を打ち明けるのはやめよう。絶対に。今日のような思いは、二度としたくない。理解してもらおうなんて、甘い期待を抱くのはもうやめだ。自分がおかしいということを、はっきりと自覚しよう。そして、その異常さを、誰にも気づかれないように、もっと巧みに隠して生きていこう。
心の周りに、分厚い壁を築くのだ。誰も、その内側に入れないように。そして、自分も、その壁の中から外へ出ようとしてはならない。壁の内側で、密やかに、あの禁断の喜びを味わい続けるしかないのだとしても。それが、自分がこの世界で生きていくための、唯一の方法なのかもしれない。
雨は、なおも激しく降り続いている。香澄は、濡れた前髪をかき上げ、空を見上げた。灰色の雲が、どこまでも重く垂れ込めている。まるで、自分の未来を暗示しているかのように。
絶望感と共に、奇妙な決意のようなものが、心の底から静かに湧き上がってくるのを感じた。それは、諦めに似た感情だったかもしれない。けれど、同時に、孤独の中で生きていくしかないのだという、覚悟のようなものでもあった。
もう、誰にも期待しない。誰にも頼らない。ただ、自分自身の秘密と共に、静かに生きていく。
雨が少し小降りになってきた頃、香澄はようやく重い腰を上げた。全身ずぶ濡れになった制服が、体に張り付いて冷たい。鞄も、教科書も、きっと濡れてしまっているだろう。それでも、香澄はゆっくりと歩き始めた。家に向かって。
帰り道、雨上がりのアスファルトの上を、小さなカタツムリが這っているのが見えた。香澄は、一瞬、足を止め、それを見つめた。ローファーの底が、むずむずと疼く。けれど、香澄は、何もせずに再び歩き出した。今は、そんな気分ではなかった。心の中が、空っぽで、冷え切っていて、あの微かな快感すらも感じられそうになかったからだ。
家に着くと、香澄は誰にも見られないように、そっと裏口から入り、自分の部屋へ直行した。濡れた制服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。温かいお湯が、冷え切った体に染み渡っていく。けれど、心の芯まで温まることはなかった。
鏡に映った自分は、ひどく疲れていて、やつれた顔をしていた。目の縁が、少し赤い。香澄は、鏡の中の自分をじっと見つめた。そして、静かに誓った。
もう二度と、誰にも、本当の自分を見せない。心の壁の内側で、私は一人で生きていく。
その決意は、夏の終わりの冷たい雨のように、香澄の心を静かに、そして深く濡らしていくのだった。
あの日から、数日が過ぎた。夏休みが始まり、学校へ行く必要はなくなったけれど、香澄の心は晴れないままだった。美咲や陽菜とは、あの日以来、連絡を取っていない。クラスのグループLINEにも、なんとなく気まずくて書き込めずにいた。きっと、二人は他の友達と、夏休みの計画を立てて、楽しく過ごしているのだろう。そこに、自分の居場所はもうないのだと思うと、胸がちくりと痛んだ。
香澄は、夏休みのほとんどを、家で過ごしていた。部屋にこもって本を読んだり、音楽を聴いたり。時折、母親に頼まれて買い物に出かけるくらいで、友達と遊びに行く約束は一つもなかった。それは、ある意味で気楽ではあったけれど、同時に、深い孤独感を伴うものでもあった。
あの日、公園のベンチで立てた誓い。心の周りに壁を築き、誰にも本当の自分を見せない。その決意は、揺らいでいなかった。けれど、その壁の内側で一人でいることは、想像以上に息苦しいことだった。
夏休みの中盤、香澄は久しぶりに、一人で街へ出かけることにした。気分転換が必要だと感じたからだ。お気に入りの、淡いブルーのワンピースを着て、足元には、いつもの白いアンクルソックスと、黒いエナメルのパンプスを合わせた。この靴を履くと、少しだけ、心が落ち着くような気がした。たとえそれが、自分の暗い秘密と繋がっているのだとしても。
目的もなく、ただぶらぶらと街を歩く。夏の強い日差しが、アスファルトに照りつけている。ショーウィンドウに映る自分の姿は、どこにでもいる、普通の高校一年生の女の子に見えた。けれど、その内側には、誰にも言えない秘密と、深い孤独が渦巻いている。
ふと、歩道脇の花壇に目が留まった。色とりどりのペチュニアが、暑さにも負けずに咲き誇っている。その中の一輪、少しだけ花壇の縁からはみ出して咲いている白い花。それを見た瞬間、香澄の足が、ぴたりと止まった。
足の裏が、むずむずと疼き始める。あの感触を、確かめたい。あの、背徳的な喜びを。
周囲を見回す。人通りは、まばらだ。誰も、自分の足元になど注意を払っていない。香澄は、ゆっくりと、その白い花に近づいた。心臓が、少しだけ速く打つのを感じる。
右足の、エナメルパンプスを、そっと上げる。靴底のギザギザした凹凸が、陽光を反射して鈍く光る。
そして、ためらうことなく、白い花の上に、靴底を下ろした。
ぐにゃり。
柔らかく、瑞々しい感触。花びらが潰れ、水分が滲み出る感覚が、靴底を通して、足の裏全体に伝わってくる。香澄は、そのままぐっと体重をかけ、靴底を軽く捻った。白いペチュニアは、あっけなく形を失い、泥にまみれたシミのようになった。
香澄は、ゆっくりと足を離し、何事もなかったかのように再び歩き始めた。胸の奥に、以前と同じような、微かな高揚感が広がっていく。けれど、それは以前よりもずっと鈍く、そして、すぐに冷たい虚しさが後から追いかけてきた。
あの日、友達に拒絶され、「変態」と言われた出来事は、香澄の心に深い傷を残した。そして、その傷は、この秘密の行為に対する感覚をも、微妙に変えてしまっていた。以前は、背徳感と表裏一体の、ひそやかな快感があった。けれど今は、快感よりも、自分が「異常」であることの確認作業のような、そんな虚しい感覚が先に立つ。
それでも、やめられない。やめることができない。
これが、自分なのだ。花や虫を踏み潰すことに、歪んだ喜びを感じてしまう、異常な人間。それを否定することも、変えることもできない。ならば、この自分を受け入れて、生きていくしかない。誰にも理解されず、誰にも受け入れられなくても。
香澄は、空を見上げた。突き抜けるような青空が、どこまでも広がっている。蝉の声が、夏の盛りを告げている。世界は、何も変わらずに続いている。変わったのは、自分自身と、自分の周りの人間関係だけだ。
もうすぐ、二学期が始まる。学校へ行けば、また美咲や陽菜と顔を合わせることになるだろう。どんな顔をして会えばいいのだろうか。以前のように、当たり障りなく話せるだろうか。それとも、気まずい沈黙が流れるのだろうか。想像すると、少しだけ憂鬱な気持ちになる。
けれど、香澄はもう、以前のように「いい子」の仮面を完璧に演じようとは思わなかった。無理に笑顔を作ることも、当たり障りのない会話を探すこともしないかもしれない。ただ、静かに、自分の心の壁の内側で、息を潜めるようにして過ごすのだろう。
帰り道、香澄は再び、道端の小さな花に目を留めた。そして、躊躇いながらも、そっとその上に足を乗せる。靴底から伝わる、柔らかな感触。それは、香澄にとって、忌まわしい秘密であると同時に、否定しがたい自分自身の一部でもあった。
この秘密と共に、私は生きていく。孤独の中で、誰にも知られずに。
香澄は、俯きがちに、家路を急いだ。白いソックスに包まれた足首が、夕暮れの光の中で、か細く見えた。その足元には、踏み潰された小さな花の残骸と、長く伸びた香澄自身の影が、静かに横たわっていた。それはまるで、これから彼女が歩んでいくであろう、孤独で、秘密に満ちた道のりを象徴しているかのようだった。
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