A:ほがらかな教授
二人はゼミ研究室で、落ち着いて話し合うことにした。幸いなことに、鳩山先輩は狗藤の抱えている問題について、真剣に耳を傾けてくれた。
「なるほど。そういうことがあったんだね。それにしても、黒之原もついていない。意識不明になったのは、これまで積み重ねてきた悪行の報いなのかな」
「先輩は以前、17万5000円の件では、黒之原さんは無罪だって言っていましたよね」
「ああ、言ったよ。黒之原は集金箱に、指一本触れなかったからね」
「黒之原さんじゃないとしたら、誰が犯人だと思いますか?」
「何だ、狗藤君は一人で犯人捜しもしているのかい?」
「ええ、そうなんです。先輩、犯人の心当たりはありませんか?」
「心当たりも何も、誰も集金箱に触れていないんだから無理だろう。そうだな、考えられるとしたら……」
「考えられるとしたら?」
「最初から、集金箱の中にはなかった、というオチじゃないの?」
「いやいや、それはないですね。僕が自分の手で入れましたから」
「自作自演とか、狂言だったとか。ほら、よくある話じゃないか」
頭のめぐりの悪い狗藤は、ワンテンポおくれて反応した。
「自作自演ということは、僕が犯人ってことですか? 僕が17万5000円を盗んだと?」
「あくまで可能性の一つだけどね」
「いやいや、冗談でもそんなこと言わないでください。そもそも、僕は立て替えていただいた比企田教授に全額を返済するんですよ」
「えっ、そうなの? すごいね。もう17万5000円を用意できたんだ」
「いえいえ、すいません。それは、まだですけどね。これからバイトを必死に頑張りますよ」
完済の目途がついていないので、つい小声になってしまう。
「とにかく、人聞きの悪いことは言わないで下さい。間違って誰かに伝わって、比企田教授や猿渡さんの耳に入ったら」
「耳に入ったらどうなんだい?」
そう言ったのは、鳩山先輩ではない。狗藤はゆっくりと声の方を振り向く。いつのまにか研究室のドア口に、比企田教授が笑顔で佇んでいた。
「狗藤くん、君の話は廊下で聞かせてもらったよ。思わず、耳を疑ったよ。日頃から目をかけてきた僕をだますなんて、もう誰も信じられなくなりそうだよ」
狗藤はサーッと血の気が引いた。
「いえいえ、とんでもない誤解です。僕は無実です。神様に誓って潔白です。ほら、先輩のせいですよ。何か言ってくださいよ。教授に誤解されちゃったじゃないですか」
笑ってごまかそうとするが、教授は真顔で狗藤に詰め寄ってくる。
「本当に誤解かな。自作自演とは、よく考えたじゃないか。ひょっとしたら、黒之原くんという悪い先輩の影響なのかな」
「断じてちがいます。教授、もう冗談はやめてください」
教授は首を横に振って、
「冗談なら、どれだけよかったか。心から、そう思うよ」
「やだなぁ、勘弁してください。自作自演なんて、僕なんかには絶対に思いつきませんよ。しらを切る演技だって、絶対に不可能です。17万5000円を盗んだのは、神様に誓って僕ではありません。そもそも、僕には動機がありませんよ」
「本当に、そうかい?」
「えっ」
「本当に、そうなのかい?」
「……いえ、正直に言えば、確かに僕は貧乏ですが」
たちまち狗藤は、しどろもどろになる。弁明の言葉を吐かなければならないのに、何をどう言えばいいのか、悲しいかな、狗藤にはわからない。自分の思いを言葉に置き換えられるほど、彼のボキャブラリーは豊富ではないのだ。
教授はしばらく狗藤を見守っていたが、やがて弾けるような大笑いを始めた。
「いささか冗談が過ぎたかな。いや、狗藤くんの人となりは、僕なりに理解しているつもりだよ。君はどんなことがあっても、犯罪に手を染めるタイプじゃない。元々そんな度胸はないだろうしね。良くも悪くも、それが狗藤くんだから」
「教授、迫真の演技でしたね。僕もうっかり信じかけましたよ」
笑いを含んだ鳩山先輩の言葉を聞いて、狗藤はようやく安堵の息を吐いた。
「テレビや雑誌取材でもまれているせいか、嘘を吐くことにすっかり慣れてしまったよ。求められて作ったキャラを演じすぎると、本来の自分を見失ってしまうから、気をつけないといけないね。ああ、狗藤くん、君は今のキャラでいいから、一生そのままでいてくれよ」
教授の笑顔によって、狗藤たちの会話は一段落した。鳩山先輩は狗藤の肩を叩き、笑いながら研究室を出て行く。狗藤も後に続こうとすると、教授から呼び止められた。
「ああ、そうだ。狗藤くんに大事な話があったんだ。どうだろう、急な話で申し訳ないんだが、今晩、付き合ってくれないか」
「大事な話?」狗藤は目をしばたたかせた。「あっ、ひょっとして返済の件でしょうか。すいません、僕にとって17万5000円は大金なので、もう少し待ってくれませんか」
「ああ、その件もあったね。そっちの返済は急がなくていいよ。実は、それよりも大事な相談事があるんだ。ぜひ、僕の話を聞いてもらいたい」
「はい、もちろんです。教授には日頃からお世話になっていますし、僕にできることなら何だってしますよ。それで、何をすればいいんですか?」
「うん、詳しい話はその時にしよう。あくまで個人的な頼み事だし、美味しいものでも食べながら、ゆっくり聞いてくれ」
つまり、教授のおごりということだ。イタリアンかフランチか、それとも高級料亭か。多忙な教授が学生を食事に誘うなど、めったにあることではない。もし、教授の女性ファンだったら、
比企田教授は朗らかな笑顔を浮かべて、
「狗藤くん、その時にはぜひ、君の将来設計も聞かせてほしい。そろそろ、卒業後のことを考え始めるのに、ちょうどよい頃合いだからね。じゃ、午後7時に、場所はいつもの居酒屋でいいかな」
もちろん、狗藤に異存などなかった。
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