B:幸福論


 頭の良い犯罪者がそうであるように、〈クロガネ遣い〉は、さりげなく社会に溶け込んでいる。海外でテロまがいの爆破事件を起こしておきながら、表向きは真っ当な仕事についており、ありふれたサラリーマンと同じように働いているのだ。


〈クロガネ遣い〉が凶悪犯罪者であるとは、誰一人思わない。


 ただ、カネの気配だけは隠しきれないようだ。無意識のうちに、言葉の端々や立ち居振る舞いに表れているのだろうか。〈クロガネ遣い〉が金持ちであることは、周囲や友人知人に知れ渡っている。なぜか、桁外けたはずれの高給取りだと思われているのだ。

 カネがらみで困ることは少なくない。例えば、高校の同窓会に行くと、なぜか、年収の話になることが多い。〈クロガネ遣い〉は、この話題が苦手だった。


「おい、相当もらっているんだろう」

 上目遣いで不屈な態度をとる奴は、そばに寄られただけで虫唾が走る。自分に自信がなく、価値観があいまいな人間は、やたらと他人と比べたがるのだ。そういう薄っぺらな輩に話しかけられたら、適当にあしらうにかぎる。


「いや、おまえが想像するほど、もらっちゃいないさ。労働に見合った報酬というのなら、最低三倍はもらわないとな。そのうち、過労死するかもな。その時は香典をはずんでくれ。何事もほどほどが一番幸福なんじゃないかな」


 そうとでも言ってやらないと、バカな連中は納得しない。まったく手間がかかる。連中は一体、何が目的なのだろう。他人の年収にどんな意味がある。それを知ったところで、何の役に立つというのだ。まさか、自分の劣等感を刺激したいのだろうか。〈クロガネ遣い〉には理解不能である。


「金持ちはおまえが考えているほど、決して幸福なものじゃないぞ」首根っこを掴んで、大声で言ってやりたいほどだ。


 確かアメリカで興味深い研究報告があった。年収が上がると生活の満足度は上がり、確かに幸福になる。しかし、それは年収630万円までの話にすぎない。それ以上になると、生活満足度が下がり始めるという。


 つまり、幸福になれない。幸福はカネでは買えないのだ。


 金持ちは幸福だ、と一般庶民は思い込んでいるが、実際にはそうではない。例えば、遺産相続の骨肉の争い。相次ぐ借金の申し込み。身内の誘拐など犯罪に巻き込まれる確率も高くなる。


〈クロガネ遣い〉は、自分は幸福だとは思わない。ずっと不眠症を患っている。酒量は増える一方だし、飲みすぎた夜には必ず子供の頃の夢を見る。良い夢ではない。できることなら抹消してしまいたい。そんな辛くて悲しい思い出の数々。


〈クロガネ遣い〉の家は貧乏だった。理由は、シンプルである。父親が定職につかず、毎日飲んだくれていたからだ。


 父親からはいつも、酒と小便の混ざったような嫌な臭いがした。他人の悪口や不平不満、恨みごとばかり口にして、理由もなく母親や〈クロガネ遣い〉を拳で殴りつけた。根っからのトラブルメーカーで、家の外でも喧嘩ばかりしていた。


 幼い〈クロガネ遣い〉から見ても、父親は最低の人間だった。だから、深夜に通りで寝込んで、大型トラックに轢かれて無残な死に様をさらしたが、少しも悲しくはなかった。むしろ、清々せいせいしたぐらいだ。


 一家のごく潰しが消えても、生活は苦しかった。家計を支えているのは、母親のパート収入だけである。スーパーのレジ打ちをしていたので、賞味期限切れの弁当や惣菜の余りものが〈クロガネ遣い〉の栄養源となった。


 毎日、油っぽいものばかり食べているせいか、〈クロガネ遣い〉の口は常に臭かった。体臭もきつかった。育ち盛りの小学生なので、新陳代謝は活発である。軽く走っただけで、すぐに汗臭くなった。


〈クロガネ遣い〉の家では水道代とガス代を節約するために、風呂を沸かすのは一日おきだった。おかげで、「くさい、くさい」とクラスメイトからはやし立てられた。意味もなく唾を吐きかけられ、殴られたり蹴飛ばされたりした。


 女子たちは遠巻きに見ているだけだったが、〈クロガネ遣い〉には嫌われている自覚があった。偶然、腕がぶつかっただけなのに、大袈裟おおげさに悲鳴を上げられたり、ゴキブリを見たような眼つきで睨まれたりしたからだ。


〈クロガネ遣い〉は彼なりに考えてみた。クラスメイトと自分の何がちがうのだろうか?


 改善策として、風呂を沸かさない日には、固く絞ったタオルで身体を拭くようにした。シャツとパンツは毎日洗って、マメに取り替えるようにした。大嫌いな歯磨きもキチンとするようにした。


 なのに、状況は少しも変わらなかった。なぜ、こんなに嫌われるのだろうか?


 答えは、火を見るより明らかである。〈クロガネ遣い〉が悪いのではない。おそらく、家が貧乏であることが関わっている。いや、それこそが根本的な理由であり、〈クロガネ遣い〉の嫌われる原因のすべてだったのだ。


 子供の頃に負った心の傷は、大人になっても消えなかった。手元にあふれるほどのカネがあったとしても、少しも幸福だとは思えない。改めて思う。カネで幸せでは買うことができないし、金持ちは幸せだと思うのは愚か者の幻想にすぎない。


 それが〈クロガネ遣い〉の実感である。


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