第十九話『色づく世界と、隣にいる太陽』
どれくらいの間、そうしていただろうか。灯台の冷たい床の上で、疲労困憊の私たちは、ただ互いの存在を確かめるように、強く抱きしめ合っていた。全ての力が抜けきって、指一本動かすのも億劫だったけれど、ハルちゃんの温もりと、規則正しい呼吸音が、何よりも確かな安らぎを与えてくれた。
窓の隙間から差し込む光が、少しずつその色合いを変え、闇を払っていく。東の空が白み始め、柔らかな朝の光が、埃っぽい灯台の内部を照らし出した。淀んでいた空気は完全に浄化され、まるで祝福のように光の粒子がキラキラと舞っているように見える。
「……ハルちゃん、見て」
私が顔を上げると、ハルちゃんもゆっくりと顔を上げた。窓の外には、夜明けを迎えた港町の、穏やかな景色が広がっていた。
「……綺麗……」
ハルちゃんが、感嘆の息を漏らす。
床には、あの古い木の人形が、まるで役目を終えたように静かに転がっていた。ハルちゃんはそれをそっと拾い上げ、服についた埃を優しく払うと、大切そうに自分のリュックにしまった。あの親子が生きた証を、忘れないように。
「……帰ろうか」
私が言うと、ハルちゃんは力強く頷いた。
互いを支え合いながら、私たちはゆっくりと、あの長い螺旋階段を下り始めた。登る時とはまるで違う、軽い足取り。灯台の壁に残る染みや傷跡も、もう不気味には見えなかった。ただ、長い年月の記憶を刻んだ、静かな証人に見える。
灯台の外に出ると、ひんやりと澄んだ朝の空気が、私たちを包み込んだ。空はすっかり明るくなり、朝の光が海面をキラキラと照らしている。街を見下ろせば、家々の窓に明かりが灯り始め、新聞配達のバイクの音が遠くに聞こえる。日常が、戻ってきたのだ。
あれほど濃密に感じられた、淀んだナゴリの気配は、もうどこにもない。私の視界を悩ませていたノイズも完全に消え、世界が驚くほどクリアに見えた。そして、力の感覚も、以前とは明らかに違っていた。荒れ狂う濁流ではなく、穏やかで、澄んだ泉のように、静かに私の内側に存在している。ナゴリは今でも見えるけれど、それはもう、私を脅かすものではなく、ただそこに存在する、世界のささやかな一部として感じられた。
「……本当に、終わったんだね」
海岸沿いの道を歩きながら、私はしみじみと呟いた。隣を歩くハルちゃんも、深く頷く。
朝日が、私たちの影を長く砂浜に伸ばしていた。美しい朝焼けが、空と海をオレンジ色とピンク色に染め上げている。私たちは、どちらからともなく足を止め、その景色に見入った。
「……ハルちゃんがいなかったら、私、絶対にダメだったと思う」
ポツリと、感謝の言葉がこぼれた。
「何度も助けてくれたし、そばにいてくれたから、私……」
「そんなことないよ!」
ハルちゃんが、私の言葉を遮るように言った。
「雫ちゃんこそ、すごかった! あのナゴリの気持ちを受け止めて……最後、光ってた時、すっごく綺麗で、かっこよかったんだから!」
そう言って、ハルちゃんは少し照れたように笑う。私も、なんだか気恥ずかしくて、視線を逸らした。
しばらくの沈黙。波の音だけが、静かに聞こえる。
「……あのね」
先に口を開いたのは、ハルちゃんだった。
「私……雫ちゃんのこと、ただの友達だって思ってたんだけど……いつの間にか、違ってたみたい」
真剣な眼差しで、彼女は私を見つめている。
「一緒にいると、すごく楽しくて、安心できて……雫ちゃんが辛い時は、私が守らなきゃって思ったし、雫ちゃんが笑ってると、私も嬉しくなる。それは……たぶん……」
そこまで言って、ハルちゃんは言葉に詰まり、顔を赤くした。
私も、同じだった。ハルちゃんは、私の暗い世界を照らしてくれた太陽だ。彼女の隣にいるだけで、私は強くなれた。彼女を守りたいと思った。その笑顔を、ずっと見ていたいと思った。
「……私も、同じだよ」
勇気を出して、私は言った。
「ハルちゃんのことが……友達としても、もちろん大好きだけど……それだけじゃない。特別だって、思う」
私たちの視線が、朝の光の中で絡み合う。もう、言葉は必要なかったかもしれない。ハルちゃんが、そっと私の手に自分の手を重ねてきた。その温かさが、確かな答えのように感じられた。私たちは、どちらからともなく微笑み合い、そして、自然とどちらともなく、そっと体を寄せ合った。朝焼けの海辺で、私たちはただ、互いの存在を確かめ合うように、静かに寄り添っていた。
数日後、臨時休校が明け、学校にはいつもの賑わいが戻っていた。あの異変のことは、ほとんどの生徒にとって「なんだか体調が悪くなる変な天気が続いた」くらいの認識らしく、真相を知る者は私たち以外にはほとんどいないようだった。
「おー、水野に天野! なんかお前ら、雰囲気変わったんじゃね? 前より仲良さそうだし!」 健太くんが、鋭いのか鈍いのか分からない指摘をしてきたけれど、私たちは顔を見合わせて笑って誤魔化した。
美術室を訪ねると、菫先輩が「おかえりなさい。大変だったみたいね」と、全てお見通しだと言わんばかりの、意味深な笑みで迎えてくれた。
「人形あるんでしょ」
「え……」
「私の実家で供養するわ」
「供養ですか?」
「ええ、話してなかったかしら。わたしの実家は古くからある神社なの」
ハルちゃんはぼろぼろになった人形を先輩に渡した。菫先輩はそれを大事そうに受け取っていた。
先輩はどこまで知っていたんだろう。そんな疑問が湧いたけど、今は訊く気になれなかった。
放課後、私たちはいつものように一緒に帰る。違うのは、今はもう、ためらうことなく、自然に手をつないでいることだ。隣を歩くハルちゃんの笑顔が、以前よりももっと眩しく見える。
港町の景色は、あの日以来、どこか色鮮やかに、そして温かく見えるようになった気がする。私の目には、今でも時折、街角に佇む穏やかなナゴリたちの姿が映る。でも、もうそれに心を乱されることはない。彼らもまた、この街の歴史の一部なのだと思えるようになったからだ。
倉庫街の近くを通りかかった時、ふと、あのゴミ箱の上に、ニャンゴロ先生のふてぶてしい姿が見えたような気がした。
(……またね)
私は心の中で、小さく呟いた。
これからも、きっと色々なことがあるだろう。私の力が、また何かを呼び寄せるかもしれない。でも、もう怖くはない。だって、私の隣には、太陽みたいな笑顔の、大好きな人がいるのだから。
少し不思議で、温かくて、そして最高に愛しい私たちの日常は、まだ始まったばかりだ。
(了)
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