第十一話『色褪せる世界と、保健室の約束』
楽しかった週末のデートが、まるで遠い昔のことのように感じられる月曜日。街の空気は、明らかに淀んでいた。空は薄い灰色に覆われ、太陽の光もどこか力なく、まるで薄い膜を通して地上に届いているかのようだ。道行く人々の足取りは重く、表情も冴えない。駅へと向かう道すがら、街角の古いポストや、ショーウィンドウのマネキンにまとわりつくナゴリたちが、いつもよりずっと落ち着きなくざわめいているのが、私の目にはっきりと見えた。まるで、何かに怯える小動物のように。
学校に到着しても、その重苦しい雰囲気は変わらなかった。欠席している生徒がいつもより多く、教室の空気もどんよりとしている。先生の声も心なしか覇気がなく、授業の内容もなかなか頭に入ってこない。私自身、今朝からずっと調子が悪かった。視界の端には常に砂嵐のようなノイズがちらつき、ナゴリの見え方が安定しない。それに伴って、鈍い頭痛と、時折ふわっと平衡感覚を失うようなめまいが続いていた。自分の体が、まるで自分のものではないみたいだ。
午後の数学の授業。窓の外の景色は相変わらず色褪せて見え、教室の中には生徒たちの気だるい溜息と、チョークが黒板を叩く乾いた音だけが響いていた。難解な数式が黒板を埋めていくのを目で追いながら、私は必死で意識を集中させようとしていた。けれど、頭痛は酷くなる一方で、視界のノイズもどんどん濃くなっていく。
その時、だった。 黒板の文字が、ぐにゃり、と歪んだ。まるで水の中に落とされたインクのように、滲んで、形を失っていく。違う、文字だけじゃない。先生の姿も、クラスメイトたちの輪郭も、ゆっくりと溶け出していくような感覚。
同時に、耳の奥でキーンという高い音が鳴り始めた。そして、感じる。教室を満たしていた、クラスメイトたちの微かな不安や倦怠感のナゴリ。それが、堰を切ったように流れ出し、混ざり合い、形を失い、どす黒い渦となって私に向かって押し寄せてくるのが見えた。冷たくて、重い、感情の濁流。まずい、これに飲み込まれたら……!
「うっ……くっ……!」
必死に息を詰め、両手で頭を押さえる。呼吸が苦しい。冷や汗が背中を伝う。指先が痺れて、感覚が遠のいていく。ナゴリの渦がすぐそこまで迫り、私を飲み込もうと大きく口を開けている。意識を保たなきゃ。力を、制御しなきゃ……! そう思うのに、体は鉛のように重く、指一本動かせない。心の中でどれだけ叫んでも、溢れ出す力の奔流を、もう止められそうになかった。
――ダメだ、もう……。
意識が遠のきかけた、その瞬間。
「雫ちゃん!」
切羽詰まったような、鋭い声。そして、ぐっと強く右腕を掴まれた。驚くほど熱い、確かな感触。
「しっかりして! 雫ちゃん!」
隣の席のハルちゃんの声だ。掴まれた腕から、彼女の焦りと、強い意志のようなものが流れ込んでくる。その熱が、闇に沈みかけていた私の意識を、強く現実に引き戻した。まるで、嵐の海で投げられた救命ロープのように。
「ハル……ちゃん……?」
かろうじて目を開けると、すぐ目の前に、心配そうに眉を寄せたハルちゃんの顔があった。教室の景色はまだ少し歪んで見えるけれど、あの恐ろしいナゴリの渦は消えていた。周りを見ると、クラスメイトたちが何事かとこちらを見ている。先生も驚いた顔で、チョークを持ったまま固まっていた。
「……ごめん、なんでも、ない……」
掠れた声でそう言うのが精一杯だった。ハルちゃんは、私のただならぬ様子を見て取ると、すぐに立ち上がり、先生に向かってはっきりとした声で言った。
「先生! 水野さん、すごく気分が悪そうなので、保健室に連れて行きます!」
先生やクラスメイトの返事を待たずに、ハルちゃんは私の腕を支え、半ば強引に立ち上がらせると、教室の外へと連れ出してくれた。廊下を歩く間も、私の視界はまだぐらぐらと揺れていたけれど、ハルちゃんの支えは驚くほどしっかりしていて、不思議と安心感があった。
保健室の扉を開けると、消毒液の匂いが鼻をついた。養護の先生は不在のようで、静まり返っている。ハルちゃんは私を空いていたベッドにそっと座らせると、「大丈夫?」と改めて顔を覗き込んできた。
白いシーツの冷たさが、火照った体に心地よかった。私は力なく頷き、ゆっくりとベッドに横になる。目を閉じると、まだ少しだけ視界がちらつくけれど、さっきのような恐ろしい感覚は遠のいていた。
「……ごめんね、ハルちゃん。迷惑かけて」
「迷惑なわけないでしょ! それより、本当に大丈夫なの? さっき、すごく魘されてたよ……」
ベッドのそばに椅子を持ってきて座ったハルちゃんが、心底心配そうな声で言う。
その優しさに、なんだか急に涙が込み上げてきた。今までずっと、この力のことは一人で抱えてきた。誰にも言えず、誰にも頼れず、ただ耐えるしかなかった。でも、今は……。
「……怖かった……」
ぽつりと、弱音がこぼれた。
「自分の力が、自分でコントロールできなくなるのが……。周りの嫌な感じが、全部流れ込んできて……」
そこまで言って、私は唇を噛んだ。こんなこと、ハルちゃんに話すべきじゃないかもしれない。また心配させてしまうだけだ。
「……こんな力、もしかしたら、ない方がよかったのかも……」
消え入りそうな声でそう呟いた時、そっと、私の手が温かいもので包まれた。ハルちゃんの手だった。
「そんなこと言わないで」
力強い、でも優しい声。
「雫ちゃんの力は、すごい力だよ。だって、他の誰も見えない世界が見えるんだもん。それは、きっと特別なことだよ」
顔を上げると、ハルちゃんが真っ直ぐな瞳で私を見ていた。
「辛い時は、私に言って。一人で抱え込まないで。私がそばにいる。絶対に、雫ちゃんのこと守るから」
その言葉と、握られた手の温かさが、冷え切って、ささくれ立っていた私の心に、じんわりと染み込んでいく。不安が消えたわけじゃない。怖さがなくなったわけでもない。でも、一人じゃない。そう思えただけで、目の前が少しだけ、明るくなった気がした。
「……ありがとう、ハルちゃん」
涙声でそう言うと、ハルちゃんは「どーいたしまして!」と、少しだけはにかんだように笑った。
保健室の窓の外は、いつの間にか雨が降り始めたのか、灰色に煙っている。街の異変は、まだ続いている。これからどうなるのか、分からないことばかりだ。
それでも、今はただ、この繋がれた手の温かさだけを、強く、強く感じていた。
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