第13話
浮遊艇が、ゆっくりと降下を始めた。
空の手のひらから、そっと地上へと返されるように。
浮遊試験空域の〈ランディングポート〉が次第に近づいてくる。
浮かんだ薄い雲を抜けた瞬間、トレインは初めて背後を振り返った。
遥か彼方、かすかに揺らめくスカイファングの影。
渦巻く大気は、すでに静まりかけていた。
——あそこを越えたんだ。
胸の奥に、もう一度、じんわりとした熱が広がる。
軽くブレーキをかけると、浮遊艇は地上のプラットフォームにふわりと降り立った。
柔らかな着地。
だが、その足裏には、まだ微かな震えと緊張が残っている。
トレインは艇から降り、深く、空に向かって一礼した。
ありがとう。
そんな言葉が、自然に胸の中に湧いた。
すでに何人かの挑戦者たちが着陸していた。
興奮して拳を突き上げる者。
地面にへたり込んで泣き出す者。
静かに、ただ空を見上げる者。
そのどれもが瑞々しくて、——美しかった。
トレインが歩みを進めると、赤い髪がひときわ目立つ少女がこちらへ向かってきた。
ミリアだ。
彼女は涼しい表情のまま鼻を鳴らし、にやりと笑った。
「やるじゃん、田舎モン」
その声には、からかうような響きだけではなかった。
確かに、少しだけ、彼の“走り”や飛行を認めるような温度があった。
トレインも肩をすくめて笑った。
「そっちこそな。最後、速かったぞ」
「当然。あたしは空の申し子だからな」
誇らしげに胸を張るミリアに、トレインは声を立てて笑った。
緊張の糸がふっと緩んでいくような感覚があった。
彼らの周囲でも、続々と挑戦者たちが集まってくる。
それぞれに埃まみれで、疲れたような顔をして、——それでいてどこか、涼しげな表情を浮かべていた。
結果がどうあれ、同じ空を越えた者たち。
互いの存在が、言葉や仕草よりも先に温かさを運んでいた。
やがて、ランディングポートに設置された浮遊掲示板に、最初の試験通過者たちのナンバーが光り始めた。
トレインの識別リングも、淡く青く光った。
──試験、第一関門突破。
心の奥に、小さな火が灯る。
これはまだ始まりにすぎない。
風裂祭は、これからさらに厳しい試練を用意しているだろう。
けれど、今この瞬間。
自分は確かにこの空に認められた。
(さあ……次だ)
ハンドルの感触が残る手を握りしめながら、トレインは静かに歩き出した。
空を見上げ、そっと視線を下ろして。
ランディングポートを抜けた先の広場では、試験を終えた者たちの安堵と興奮が溢れていた。
その雑踏の中で、トレインは見慣れた姿を見つけた。
柔らかな赤栗色の髪。
風にそよぐ薄手のストール。
そして、こちらに気づくとぱっと笑顔を咲かせた少女。
「トレイン!」
リリムだった。
彼女は、両手を大きく振りながらパタパタと駆け寄ってきた。
その姿を見た瞬間、胸の奥でほっとするような温もりが広がった。
トレインにとっては“癒やし“だった。
飛び終えたばかりの緊張と興奮を拭う、——そんな何気ない日常の息遣いが、凝り切った全身の筋肉を解きほぐすように優しく頬を掠めた。
「お疲れさま!すごかったよ、下から見てた!」
急いで駆け寄ってきたせいか、リリムは肩で息をしていた。
居ても立っても居られなかったのかもしれない。
息切れしながら、嬉しそうにトレインを見上げていた。
「…来てたのかよ」
「ごめんごめん。行くって言ったら変に気を使わせるでしょ?」
「…別にそんなことはないけど」
「嘘ばっか!この前は嫌そうな顔してたくせに」
「そうだっけ?」
「そうだよ!まあ、別にいいんだけどさ」
ダリオンにお願いして、こっそり会場に来ていた。
どうしても近くで応援したかった。
だからトレインには内緒で、試験が始まる前に観覧席へと足を運んでいた。
”スカイランナーになる“
その第一歩を踏み出そうとする幼馴染の姿は、彼女にとっても特別な時間だったからだ。
「まあでも……ありがとな」
トレインは、照れくさそうに後頭部をかいた。
その顔にはどうしようもない笑みが滲んでいて、隠しきれていない感情があった。
「このあと時間空くでしょ?お昼はどうするの?」
「昼?…あー、考えてなかったな」
「じゃあせっかくだから、少し街を歩かない?」
リリムがそう言って、柔らかく手を伸ばしてきた。
トレインは黙ってその手を取った。
ふたりは賑わう広場を抜け、ゆっくりと街を歩き始めた。
スカイタウンは、どこを歩いても風が通り抜けていた。
高い白壁に、幾何学模様の窓。
くるくると回る風車塔。
頭上を飛び交う小型浮遊艇と、舞い散る風花。
石畳には、風を讃える詩が刻まれていた。
時折、空の方角を指す小さな銅像が立っている。
リリムは、それを見つけるたびに立ち止まり、
「これ、エアリアの子供たちの像なんだって」と、楽しげに話しかけていた。
どこまでも続く石畳の道には、風詩(かざうた)の断片が刻まれていた。
「風に生まれ、空に誓い、言葉は雲に託される」——そんな一節が、苔むす路面にさりげなく彫られていた。
トレインは、それを見ながらふと呟く。
「……風が言葉を運ぶって、ほんとなんだな」
「でしょ?」
リリムは嬉しそうに笑った。
「この街、全部が“風を聴くため”に作られてるって、知ってた?」
トレインは目を上げる。
広場の端に立つ風見塔。
その上には、銀の羽根飾りと小さな風鈴が風に鳴っていた。
「風の塔、風の鐘、風の像。街そのものが、大きな風見機になってる」
「……ふーん」
その声は、風に消えないほどの静かさだった。
リリムは振り返らなかった。ただ、口元だけが緩んだのがわかった。
白銀の舗道は、淡い金色に染まり、高い塔の影が長く地面を撫でていく。
風の市場(マーケット)からは、香ばしい焼き菓子や、スパイスの香りが漂ってくる。
行商人たちが軒を連ねる路地には浮遊花の花弁がそっと舞い、小さな楽団が風楽器(ウィンド・ラルゴ)を奏でる音が微かに響いていた。
広場から少し離れると、白い石畳が緩やかなカーブを描き、左右には風の意匠をあしらった家々が並んでいた。
家の壁は淡いクリーム色に塗られ、窓には小さな風車がついている。
回るたびに、カラカラと小気味よい音を立てるそれは、この街が風と共に生きていることを静かに物語っていた。
街角では屋台の行商人が浮遊果実を売っていた。
淡いピンク色の果実は宙に浮かび、風に揺れながら香りを放っている。
リリムは立ち止まり、興味深そうにそれを眺めた。
「ねぇ、見て。あれ、触ると味が変わるって」
トレインも足を止め、にやりと笑った。
「どうせまた、甘いのがいいって言うんだろ」
「当然でしょ!」
笑いながら、また歩き出す。
スカイタウンの小道は、風の通り道を意識して設計されている。
だから、どこを歩いても、心地よいそよぎが肌を撫でていく。
小さなカフェのテラス席では、浮遊楽器の奏者たちが集い、透き通った音色を風に乗せていた。
風が、歌っていた。
街そのものが、呼吸していた。
ふたりは、緩やかな坂道を上った。
天幕の間をすり抜けると、空へと続く細い階段に出た。
その先に、天空回廊(スカイアーケード)と呼ばれる高架の通路があった。
透明な床材で作られたアーチ状の橋は、街の中心部を見下ろす特等席だった。
トレインは、思わず息を呑んだ。
眼下には、無数の漂流島がゆったりと漂っている。
中には浮遊農場もあれば、聖堂のような建物もあった。
その間を縫うように、小型の浮遊艇が行き交い、白い航跡を空に刻んでいる。
太陽は、街の頭上を見下ろすように傾いていた。
空の彼方に続いていく水平線。
金色の光が、街を、島を、空を、すべて柔らかく染め上げていく。
リリムが、小さく囁いた。
「ねぇ、トレイン……空って、近いようで、やっぱり遠いね」
トレインは、肩を並べながら頷いた。
「でも、手を伸ばせば、少しは届く気がする」
ふたりは軽やかな足音を響かせながら、風の橋を渡った。
空中に架けられたその橋は、半透明の魔力ガラスでできていて、下には雲と空の海が広がっていた。
「怖くない?」
リリムがふと訊く。
「……あんまり」
トレインはそう答えた。
「昔なら、たぶん足すくんでたけどな?」
風が流れる。
リリムの髪がふわりと舞う。
橋の先には、小さな円形の広場があった。
風鈴が一斉に鳴る。風詩が空に舞う。
ふたりはその中心に立ち、目の前に広がる雲の海をしばらく見つめていた。
「ねえ、覚えてる?アストリアの断崖で、ふたりで風を聴いた日」
「……覚えてるよ」
「あの時、あたし——この空を、怖いって思った。
けど、今はちょっと違う。…なんていうのかな、ずっと身近な存在になったって言うのかな?遠いようで、近い。手で触れないけど、——あったかい。…たぶん、そんな感じ」
トレインはそんな彼女の横顔を見ながら、少しずつ、試験の緊張が解けていくのを感じていた。
穏やかな時間だけが、二人の間を優しく撫でていった。
広場の端にある小さな噴水。
その水面には、見慣れた「空」が映っていた。
雲一つない、澄んだ青。
そこにふわりと、二人の影も揺れていた。
リリムが、小さく囁いた。
「…トレイン、まだ早いのかもしんないけど、ひとまずおめでとう」
その言葉に、トレインはうなずいた。
まだ、道は遠い。
風裂祭の試練は、これからますます厳しくなる。
けれど、今日だけは。
今だけは。
この小さな奇跡を、胸に抱いてもいい気がした。
「ありがとう、リリム」
風がまた、ふわりと吹き抜けた。
柔らかな時間だけが、二人の間にそっと流れていた。
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