第9話
空を裂く音と共に、空域走破試験が始まった。
トレインは試験艇のハンドルを握り、風魔結晶を最大まで解放した。
機体が、跳ねた。
風を捕まえた瞬間、重力の感覚が消える。
体が一瞬だけ浮き、すぐに前へ、前へと引き寄せられる。
目の前には、開けた空。
左右に広がる漂流島の群れ。
下には、濃い雲海。
上空には、逆巻く風脈と、巨大な浮遊岩の影。
すべてが、立体的に押し寄せてくる。
トレインは、即座に判断した。
(右――)
右側の、傾いた小さな島の脇をすり抜ける。
風の流れが斜めに切り込んでいる。
そこを利用して、加速する。
機体をわずかに傾け、体を低く伏せる。
試験艇が、風を滑るように駆け抜けた。
周囲では、他の挑戦者たちも空を翔けていた。
赤髪のミリアは、軽やかな操縦でトレインのすぐ左を並走している。
耳にイヤホンをつけたままの少年は、島と島の間を流れる細い気流を器用に利用し、風のトンネルを突き抜けていく。
空は、生きている。
動き続けている。
一瞬でも判断を誤れば、
風の牙に囚われ、コースアウトする。
(集中しろ)
トレインは心で叫んだ。
呼吸を合わせる。
風を読む。
流れを掴む。
島影をかすめながら、浮遊岩の間を抜ける。
気流の跳ね返りが艇を揺らす。
だが、トレインはハンドルを微調整し、揺れをいなした。
遠くに、次のチェックポイントが見えた。
光る輪郭を持った浮遊標識。
そこを通過すれば、第一セクションはクリアだ。
だが、その手前――
視界の端に、異変が見えた。
空気が、ねじれている。
漂流島が、ひとつ、微かに軋みながら揺れていた。
(あれは……!)
トレインは即座に気づいた。
あれは、「落ち島(フォールアイランド)」。
空に浮かぶ島のひとつが、風脈の変化に耐えきれず、
ゆっくりと高度を落とし始めているのだ。
島が落ちれば、風の流れも一気に乱れる。
突風、渦、乱流――
すべてが、一瞬で牙を剥く。
進路を直進すれば最短。
だが、そのままでは確実に、島崩れに巻き込まれる。
迂回すれば、安全だ。
だが、その分、タイムは大きくロスする。
(どうする……?)
一瞬の迷い。
次の瞬間、風が、トレインの頬を叩いた。
「行け」
風が、そう言った気がした。
トレインは、ハンドルを強く握り締めた。
迷わない。
空を信じる。
風を、信じる。
目指すは、真正面――
崩れかけた島の影を突き抜ける、ただ一筋の細い風の道。
トレインは、試験艇を駆った。
最初の試練が、目の前で牙を剥いて待っていた。
突き出した島影が、視界を塞ぐ。
重たい岩の塊が、空中で軋み、ゆっくりと沈みはじめていた。
(行ける……!)
トレインは、自分に言い聞かせるように息を吐いた。
だが、現実は甘くなかった。
島が傾いた瞬間、空気の流れがねじれ、突風が試験艇を叩きつけた。
「っ、ぐ……!」
艇が大きく横滑りする。
体が遠心力に引っ張られ、バランスが崩れる。
ハンドルを持つ手が、微かにぶれた。
機体が、沈む。
重力に引きずられる。
(まずい!)
焦りが胸を満たしかけた、そのときだった。
ふと、耳の奥で、かすかな声がした。
――風は、声を持つ。
だが、聞こうとしなければ語らない。
じっちゃんの声。
ダリオンの、何度も聞いた教え。
トレインは、ぐっと目を閉じた。
焦るな。
空を、感じろ。
深く、息を吸う。
風の流れを、耳で聴く。
皮膚で感じる。
体全体で、受け止める。
滑る風。
跳ねる気流。
沈む空間。
そのすべてが、トレインに語りかけてくる。
(……今だ)
風の道は、ひとつだけだった。
島の陰に生まれた小さな風の裂け目。
そこを通れば、渦に巻き込まれずにすり抜けられる。
トレインは、ハンドルを切った。
艇が、ぎりぎりの角度で島影をかすめる。
すれすれに岩の断面を掠め、滑らかな輪郭の機体が空を滑る。
突風が、頭上を唸りながら駆け抜けた。
岩が、真横できしむ音を立てた。
それでも、トレインはブレなかった。
(風を、信じろ)
体を艇に預け、重心をかけ、さらに加速する。
機体が、岩の断面すれすれを滑り抜ける。
ざらついた岩肌が、指先に触れそうなほど近い。
すれ違うとき、風圧が爆ぜ、機体が一瞬だけ浮き上がった。
トレインは、咄嗟に体を沈めた。
重心を艇の腹に預け、風に身を任せる。
《スウィフトウィング》より重い統一艇が、唸りを上げながら加速する。
空気を切り裂く音が、耳を突き抜ける。
ひとつ、ふたつ、飛び散る岩片をかわす。
そのたびに、空の感覚が研ぎ澄まされていく。
目の前に広がるのは、ただの空ではなかった。
渦巻く乱流。
引き寄せる下降気流。
予測不能な突風。
生き物のようにうねる空が、行く手を阻む。
──そして、悲鳴が上がった。
視界の左端、緑色のマントを翻していた参加者のひとりが、乱流に巻き込まれ、機体ごとぐるりと回転しながら墜ちていく。
「しまった!」
彼の叫びが、遠ざかっていく。
すぐに緊急用の浮遊バリアが展開し、彼は安全に捕獲された。
しかし、試験続行はできない。脱落だ。
(気を抜けば、すぐにこうなる……!)
トレインは、ぐっとハンドルを握り直した。
まだ、終わりじゃない。
まだ、ここはただの第一関門だ。
前方に、次なる景色が立ち上がってきた。
──高空乱流帯。
いくつもの小島が、垂直に重なるように浮かび、その間を太い風脈がうねりながら通り抜けている。
まるで、巨大な風の迷宮。
島と島の間を潜り抜け、
風脈を読み、
一瞬の隙を突いて突き抜けなければならない。
さらに上空では、雷光のような風魔結晶の閃きが散っていた。
あれは、“風紋雷(ウィンドクラッシュ)”――
過剰な魔力が大気中で炸裂し、強制的に風を変える現象だ。
(ここを、抜ける……!)
トレインは、呼吸を整えた。
落ち島は突破した。
だが、試練は、ますます牙を剥いてくる。
艇の魔力出力を微調整する。
過剰に飛ばせば制御を失う。
遅れれば、後続に飲み込まれる。
全身の神経を研ぎ澄ませながら、
トレインは、次なる空へと艇を駆った。
空は、まだ、試している。
どこまで空を信じられるかを。
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