ブラッド・イズ・マネー

野衾

第1話 ー血と灰の囚われ人ー


 頭蓋の裏で、弾けた記憶が焼き残っている。

 雨の中の銃撃戦。泥にまみれた味方の断末魔。

 焼けた肉の臭いが、夜の闇を染め上げていた。

 

「後退しろ!スレイド、聞こえるか!おい――!」


 もう、聞こえるはずのない声。

 誰かが叫んだ。頬をかすめたのは、血か雨か。

 あちこちで鳴り響く爆発音が耳をつんざくたび、思考が削れていく。

 

 敵がどこにいたのか、誰を撃っていたのか――恐怖と狂気に歪む顔だけは、嫌というほど脳裏に焼きついている。

 あの場で誰かと共に沈んでいれば、それがいちばん楽だったのかもしれない。

 

 足元で爆音が響く。空に、赤黒い何かが散った――肉か、夢か。

 誰かの名前が叫ばれ、すぐに沈黙へと飲み込まれる。

 耳鳴りだけが続いていた。

 その向こうに、血の匂いがじわりと滲んでくる。


 そして――声が、届いた。

 瓦礫の影から滲み出すように、やわらかく懐かしい音が触れる。

 胸の奥が、ずぶずぶと冷えていった。

  

 ――オリヴァー。

 

 戦場にはいなかった女の声だ。もうこの世にいないくせに、毎晩俺を呼びに来る。

 

 「はっ」と息を漏らし、ベッドから跳ね起きた。

 呼吸が乱れ、掌は汗に濡れていた。

 額に滲んだ汗が、喉元まで冷たく流れ落ちる。

 鼓動は速く、痛みすら覚えるほどだ。


 俺はゆっくりと身を起こし、虚空を睨む。

 ただの空気だ。だが――夢のくせに、いつも現実の隙間に入り込んでくる。


「はあ……またか。くそったれな夢だ」


 壁のひび。湿ったシーツ。遠くで鳴く犬。

 この部屋にあるものは、全部、現実だ。

 なのに、過去だけが終わってくれない。


 “血は金になる”

 それがこの国の通貨。俺の価値だった。

 戦場で流れた血、売り渡された命――

 それらを喉奥に詰め込みながら、俺はまだ、生きている。


 煙と鉄の匂いが、鼻の奥で燻り続けている。

 戦場を離れて4年。年だけは29になったが、中身はまだ泥濘にはまったように帰ってこない。

 ――踏み越えたはずの靴底に、まだ乾かない泥がこびりついている。


 部屋の寒さが骨に沁みる。

 壁紙は剥がれ、窓の向こうでは煤が空を曇らせていた。


 ロンドンの朝は、今日も灰色だ。

 工場の煙突が、毒を吐き出す音が聞こえる。

 この街には、生きている者より、死んだ夢の方が多い。


 時計は五時を差していた。

 下町の労働者たちが、そろそろ目を覚ます頃合いだ。


 俺も同じだ。

 元軍人、今は町工場で機械を直している。

 手にするのは銃じゃなく、工具と油まみれの部品。

 今もたまに、銃声が恋しくなるときがある。ある種の病気だな。

 命令を下すのが国じゃなく、俺になっただけの話だ。


 銃より冷たい頭がなければ、生きていけない。

 ……だが、俺の頭はまだ熱を持っている。夢の火傷が、まだ残っているらしい。


 血で飯を食う。それが今の俺だ。

 命に値札がつく限り、俺の指は乾かない。


 今日もまた、誰かが死ぬ。

 それがどうした。俺にとっては、ただの始業だ。


 枕元のウイスキーを掴む。

 喉に流し込むが、焼ける感覚も夢の残骸ひとつ、洗い流せやしない。


 それでも――飲む。

 灰色の朝の向こうで、今日も誰かの名が金に換わる。


 瓶を戻し、無造作に立ち上がる。

 冷えた床に素足が触れた瞬間、記憶が這い上がる。

 焼けた土と、血と、絶叫。

 ……どこまでが夢で、どこからが現実か、もうわからない。


 気づけば、内側からじわじわと、焼け跡のように――灰色が染み出していた。

 

 石炭の燃え殻で濁った洗面器の水で顔を洗い、鏡を睨む。

 こけた頬、虚ろな目。瞳には、死に損なった光だけが沈んでいた。

 忘れたふりを続けすぎて、何を最初に失ったのかさえ、思い出せない。


 いつからこうなったのか――もう誰にも聞けやしない。


 静寂を裂くように、歯車の唸りが走る。

 隣の工場が、何事もなかったかのように目を覚ます。

 この街では、誰が死んでも機械だけが止まらない。

 

 シャツを引っつかみ、油の染み込んだオーバーオールを肩にかける。

 機械の心臓をいじるための格好だが、こっちはとうに心臓なんか捨ててきた。


 扉を開けた途端、鼻をつくのは――不健康な“人間の匂い”と血とは違う鉄の臭い。

 汗と煙草と石炭と、安い朝食の残り香。

 生きてる、ってのは、どうやら臭いことらしい。


 通りには、無表情な労働者たちが、ぞろぞろと歩くだけの群れ。

 目を合わせる奴はいない。希望を語る奴もいない。

 全員が「死んでいない」だけの存在に見えるのは、気のせいだろうか。

 ――たぶん、俺の方が壊れてるからだろう。 


 俺はその流れに混じって歩き出す。

 この街の歯車は、血と肉で回ってる。

 潰れりゃ取り替え、黙って埋められる。

 壊れる側から、直す側に回ったつもりだった。笑えるな。


 工場の門をくぐると、石畳に油の染みた音がした。

 まだ蒸気が立ち上る前の空気は、やけに冷たい。


「よお、スレイド。また顔色死んでるぞ、昨夜も寝てねぇのか?」

  

 仕事仲間のバートだ。あいかわらず、タールの塊みてぇな声だ。

 朝から煙草をくわえ、鉄粉まみれの顔で笑っている。煙のせいか、目が笑っているのかすら分からない。

 まあ、この街の連中は、誰も正面なんか見やしない。人の目も、自分の過去も。

  

「生きてるだけマシだろ」

 

 そう返すと、バートはくく、と笑った。

 あいつの笑いは、いつも煙の中に消える。


 出勤簿に名前を記し、工具棚へ向かう。

 黒光りした鋼鉄の塊をいじる、それが俺の仕事だ。蒸気機関車の内臓みたいなもんだ。

 

 視界の端で、何人かの目がこちらを見ていた気がした。

 けれど、誰も声はかけない。いつものことだ。


 俺がどこで何をしてきたか、みんな何となく知っている。

 けど誰も深くは踏み込まない。

 “あいつは戦争帰りだからな”――その一言で済ませる空気が、この工場にはある。


 悪意じゃない。

 同情と諦めが、うまく混ざった目。

 壊れかけの機械を扱う連中にとっては、むしろ正しい反応だ。


 工具を一式手に取り、作業台の連結棒に目を落とす。

 夜のうちに片輪が焼き切れたらしい。

 焦げついた鋼から、皮膚を焼いたときのような、鈍く甘い臭いが立ち上っていた。


「……心臓じゃなくてよかったな」


 スパナの重みを手に確かめながら、内心でぼやく。

 生きたものは壊せても、壊れたものに血は戻らない――そんな仕事だ。


 鍛造場に、金属のきしむ音が響く。

 仕事仲間の1人、リースの手元でヤスリが跳ね、細かい火花が飛び散った。


「……っ、ああクソ、やっちまった」


 左手を押さえるような仕草。手袋の繊維が吸いきれず、赤がじわじわと染み出していく。

 バリの処理が甘かったか。鼻腔に、鉄じゃない"生の匂い"が一瞬だけ引っかかった。 

 こんな怪我、毎週誰かがやる。だからこそ“慣れ”が怖い。


 だが、その瞬間。


 ……血の匂いがした。

 油と焦げた鉄の臭いしかないはずの場所で、それだけが際立って立ちのぼる。


 油と焦げた鉄の臭いしかないはずの場所で、それだけが際立って立ちのぼる。


 喉の奥が熱を帯びる。

 呼吸ひとつで、舌の裏が疼いた。


 忘れていたわけじゃない。だが、こんなふうに、いきなり来る。

 たった数滴のはずなのに。視界の端に落ちた赤が、まるで水たまりのように広がって見える。


「おい、スレイド! 手が止まってるぞ!」


 工場監督ナッシュの怒鳴り声で現実に引き戻された。いつもは耳障りで殴りたくなる声だが、今だけは感謝しておく。もう少しで同僚を襲うところだったんだから。

 

 視線を向けたつもりが、どこを見ていたのかもわからない。世界が、一瞬だけ“焦点”を失っていた。


「……水で洗って、布でも巻いてこい」


 なるべく目を合わさず、いつもの調子で返す。

 息の出入りを意識しすぎて、うまく喉が動かない。


 リースが離れていく足音だけが、やけに遠く感じる。


 あとは床に落ちた痕跡だけが残った。

 乾くにはまだ早い。血の匂いだけが、まだ空気に残っていた。ぬるく、肌にまとわりつく。


 思わず奥歯が鳴る。

 唇の内側に、微かに牙が当たる。


 吸血鬼に転化してから6年経っても、これだけは抜けない。

 

 かつて何度か口にした、飢えで死なないために。

 生きることと、歯を立てることは、もう切り離せなかった。

 吸血という行為が本能として体内を侵食していく感覚。

 “飲んだら、楽になる”――わかっている。だが、それをやれば唯一残った"人間"の部分まで失うようで、怖い。

 だけど同時に、少し、ほんの少しくらいなら……と思ってしまう自分が確かにいる。


 作業台に戻る。

 スパナを手に取ったつもりが、指がかすかに震えていた。

 誰にも見られないように、手首を袖でぬぐってから、そっと工具を握り直す。


 ――大丈夫だ。何でもない。いつものことだ。


 そう自分に言い聞かせるように、動かし慣れた手順を繰り返す。

 それでも、吐き気にも似た飢えがじわじわと腹の奥を絶え間なく掻き乱す。


 視界の隅。

 床に残されたままの、リースの血痕が、まだそこにある。

 乾ききらないその赤が、目の奥に焼きついて離れない。


 誰も拭くやつも居なければ、気にするやつもいない。当然だ、そんなことで作業は止まらない。

 ただ、その匂いだけが、空気の層に沈殿している。 

 

 リースは何事もなかったように戻ってきて、俺の隣で再び作業を始めた。見なくても十分過ぎる。

 左手首には布が巻かれている。最初は白かったはずのそれが、時間が経つにつれてじわりと赤く染まりはじめる。にじみ出す血が、布の繊維を伝って広がっていくのが視界の端で分かった。


 ――おい、まじかよ勘弁してくれ。


 頭の奥で、内側から牙を剥き出しにされるような感覚。

 今すぐ顔をそむけたい。だが、ここで逃げたらすべてが崩れる気がした。

 工具を握る手に力を込め、作業に意識を戻そうとするが、集中できるはずもない。

 鋼の響きが遠のき、耳鳴りが混ざる。呼吸のリズムもずれていく。

 手が止まりかけた、その刹那――


「スレイド! 何止まってやがる、寝てんのか!」


 ナッシュの怒鳴り声が工場内に響き渡った。

 心臓が跳ねるんじゃない、奥歯が軋む。

 怒鳴られるたびに、むしろ助かってる気がしてくる。

 あの血の匂いが、ぬめるように鼻の奥に居座っていて、まともに息を吸うだけで、喉が更に渇く。


 リースは気にしていない様子で鉄を削り続けている。

 血を流している自覚はあるのか、それとも――もうどうでもいいのか。

 いずれにせよ、俺には目を背けることなんてできなかった。

 渇きはずっとそこにある。血に反応するこの身体も、止められやしない。

 ナッシュの声に縋るように、ほんの一瞬でも気を緩めたら、たぶん何かを噛みちぎっていた。

……まるで、自分の芯を一つずつ、削られてるみたいだった。 


 機械の唸りが止まり、昼の合図の鐘が鳴る。

 一斉に工具が置かれ、あちこちで弁当箱の蓋を開ける音がする。パン、干し肉、安いスープ。食うというより、腹に詰めるだけの作業だ。


 俺はひとまず壁際に座り込み、ポケットから冷えたパンを取り出し、少しずつちぎって口に含む。

 パンのはずなのに、粉と空気を噛んでるような気がした。


「スレイド」


 わずかに鉄が擦れる音とともに、リースが腰を下ろす。左手首は布の上からさらに汚れた包帯が巻かれていた。にじみ出た血の跡は、辛うじて止まったようだ。


「……さっき、お前……その、大丈夫か? 朝よりも具合悪そうに見えるぞ」


 不器用な気遣い。

 パンの味もしないまま、心の中で毒を吐いた。 


 ――ああ、お前のおかげでな。


 もちろん口には出さない。

 「問題ない」とだけ答えて、食事を早々に切り上げた。


 休憩が終わると、また地獄の釜が開くような金属音と怒声が飛び交う時間が始まる。

 午後の作業に戻ってすぐ、横の作業台で別の若い作業員が部品を逆に組み立てていたらしく、ナッシュが怒鳴りながらスパナをぶん投げた。


「てめぇ、指示聞いてなかったのか! それじゃ機関棒が噛み合わねぇだろうが!」


 飛んできたスパナは俺の足元をかすめて転がった。

 舌打ちひとつで拾い上げ、無言で、床に転がすように放り返す。

 誰も顔を上げない、こういうことは、もう日常の一部だ。


「当たっても文句言うなよ?」


「なにぃ? 口のきき方に気ィつけろスレイド、貴様だって……」


 あのクソ野郎が何か言い返しかけたが、俺はもう聞いていない。

 どうせまたいつもの繰り返しだ。しかし、こんなクズにも一つだけ褒められる長所がある。

 暴力だけは振るわない――その一点だけは、確かに救いだ。工場でそれがないってだけで、まあ、まともな部類には入る。

  

 ようやく、終業の鐘が鳴る。

 鐘の音が遠ざかっても、脳のどこかではまだ作業が続いていた。

 

 工具を棚に戻し、作業着の汚れを払いながら、誰とも目を合わせず工場をあとにする。

 騒がしい歯車の音が止んでも、耳の奥ではまだ鈍い軋みが続いていた。


 ――日に日に酷くなっている。

 最後に血を口にしたのは……もうひと月前か。けれど、この渇きは、もっと永く俺を蝕んでいる。

 

 日が沈む。

 煤と鉄の臭いを身にまとったまま、俺は街の端の酒場に滑り込んだ。

 湿った木と煙草と、擦り切れた労働者たちの汗が混じった匂いが、空気より濃かった。


 傾いた椅子に腰を下ろす。

 背中が痛む。疲れが抜けるどころか、骨の奥に根を張ったままだ。

 

 見慣れた黒い髭を生やしたバーテンの男が「いつものかい?」と声をかける。俺が頷くだけで、向こうはもう注ぎ始めていた。


 ピートの香りが強く立つ、スコッチウイスキーのストレート。

 グラスに注がれた透き通った琥珀色の液体は、薬草と泥炭の匂いをゆっくりと立ち上らせる。

 一口含むと、喉の奥で火が灯るような感覚が走った――吸血鬼になっても、ウイスキーだけは昔と変わらない。

 その火だけが、今でも“生きてるふり”をさせてくれる。

 

「……相変わらず、くそマズそうな顔で飲むな、お前は」

 

 その声がした瞬間、グラスを持つ指が止まった。


 振り返ると、カウンターの端に立っていたのは――ルーカス・グレイ。

 少年の頃、チンピラどもに喧嘩を吹っかけて死にかけ、そのときに吸血鬼に"転化"したらしい。

 身にまとう空気に、妙な“貫禄”がある。


 ダークグレーのウールコートを纏い、磨き上げられた革靴が、乾いた床を静かに叩く。

 ざっくりとかき上げたくすんだ金髪に、二、三センチに整えられたカイゼル髭。

 皮肉と諦念を湛えた笑みが、年季の入った顔に無理なく馴染んでいる。

 俺より2つ歳上だが、数字以上に、背負った時間の重さが違った。

 コートの下から滲む筋肉は、かつての喧嘩で鍛えた粗削りなものだ。それでも、死なないというだけで、肉体はこうして“完成”される。

 まるで、誰にも祝われないまま彫られた、石像のように。

 

 それだけだ。特別じゃない。ただ――

 死なないというだけで、人間はこんなふうに硬化する。

 

 この街で、ルーカスの名を知らない者はいない。

 表向きは“グレイ商会”の経営者。だが裏では、ギャングと薬の流通を牛耳る男だ。

 誰も目を合わせないのに、気配だけが場の空気を凍てつかせている。


 見間違えるはずがない。吸血鬼になったあの夜、最初に交わした"同類"。

 たったひとり、友と呼べる男だ。

 

「……あんた、生きてたのか」


「それ、前にも聞かれたな。……生きてるかどうかなんて、もう俺たちには大した問題じゃねぇ。それより、おい。顔がひでぇぞ。血、摂ってねぇんだろ? 次の“血税”払えねぇぜ?」


「……血税か」

 

 ルーカスが使ったその言葉に、グラスの中で酒が重くなった気がした。


 吸血鬼になった者には、定期的な“献血義務”がある。

 政府と裏社会が見て見ぬふりで設けた制度だ。

 吸血行為による暴走や犯罪を抑えるため――という建前だが、実態は“管理と監視”のための仕組みにすぎない。

 数値化された摂取量、提出された血液サンプル、違反すれば“処理対象”。

 どれだけ自制していようと、関係ない。“法”が定める量を摂らなければ、危険な吸血鬼としてマークされる。


 皮肉な話だ。

 血を飲まなければ人間でいられず、飲みすぎても“怪物”になる。

  

 相変わらずだった。目元は笑っていても、目の奥はどこか遠くを見ている。

 ルーカスは俺のグラスに視線をやり、火も点けない煙草を無造作に咥えた。

 ただ、ひとつ。何かを見極めるような目で――黙って俺を見ている。


「……地下には行ったか?」


 一拍、間が空いた。氷の粒が喉を滑り落ちるような感覚。


「地下?……なんの話だ」


 言葉を探るように返すと、ルーカスはふっと口角を上げた。

 上着の内ポケットから黒い金属片を取り出し、カウンターに無造作に置く。


 それは、ただのカードだった。だが――空気の重さが変わった。


「吸血鬼だけの集まりだ。人間には見えないし、見えても入れねぇ。けど、お前なら通れる」


「……なんで俺に?」


「お前が最初から“そういう場所”の人間だからだよ。俺と同じでな」

 

 そう言い残すと、ルーカスは一口だけグラスのウイスキーをあおり、立ち上がった。


「今夜、行ってみるといい。どうせ眠れねえんだろ?」


 そのまま、奴は一度も振り返らずに酒場を出ていった。


 グラスの底に残ったスコッチはもう温く、香りも煙と混ざって消えていた。

 ルーカスが去ったあとも、俺はしばらく動けなかった。

 カードはポケットの内側に収めたまま――肌に触れる金属の冷たさだけが現実を繋ぎとめていた。


 店を出ると、夜のロンドンは変わらず煤と霧に包まれていた。

 街灯はまばらで、煤けた明かりが道を歪ませていた。

 通りは異様に静かだった。まるで、街そのものが何かを息をひそめて待っているような。 

 嫌な予感がする時は、大抵当たる。


 家へ向かう途中、視界の隅に人影がしゃがみ込んでいた。

 膝を抱えてうずくまる、薄汚れた外套の老人。

 物乞いだ。

 道行く人間に手を伸ばし、だが誰からも気づかれず、存在ごと風景に埋もれていた。


 立ち止まるつもりなんかなかった。

 だが――その“匂い”が、脳を撃ち抜いた。


 よく見ると、外套の袖口に赤黒い染みが広がっていた。

 次の瞬間、鼻腔をかすめる――血の匂い。殴られたか、刃物でも突きつけられたか。どちらにせよ珍しい話じゃない。

 けれど、掠れるような、それでいて確かな“生”の証。

 ここまで耐えてきたというのに、胸の奥に沈んでいた渇きが――ふいに、顔を覗かせた。

 喉が焼け、牙が疼く。

  

 喉が焼ける。

 視界が赤く染まる錯覚に襲われる。

 足が勝手に動いた気さえした。


 奥歯を噛み締める。

 拳をポケットに突っ込んで、爪が掌に食い込む感覚で我に返る。

 ただの人間だ。ただの飢えただけの、何も知らない人間だ。

 ふと、窓ガラスに目をやると白く鋭い牙を剥き出しにしている俺が映っていた。 

 人間だった頃よりも哀れだ。滑稽で、救いようのない姿にしか見えない。

 

 かすかに震える手を隠しながら、俺は踵を返した。

 目を逸らし、そいつの傍を通り過ぎる。


 あの香りだけが、しばらく鼻腔にこびりついていた。

 俺はまた、ひとつ“ふり”をして乗り越えた。

 吸血鬼としての自分を受け入れるしかないのか、それとも一生苦しいままでいいのか。


 ポケットの中、ルーカスが置いていった黒いカードが、指に触れる。

 体温を吸って、わずかに熱を帯びていた。


 ――このままで、本当に良いのか? 


 自問に答えられないまま、俺は煙る路地を踏みしめる。

期待なんて、とうに捨てたはずだった。

 それでも、何かに縋りたい。そうでもしなければ、すり減った輪郭すら守れない。

 いつも、幻に追われ、絶え間ない飢えや焦燥に飲まれ続ける。そんな自分に、もう疲れきっていた。 

  

 BLOOD LOUNGE

 血のラウンジ。

 そこに行けば、何かを失うかもしれない。それでも――何かを取り戻せる気がする。


 ……俺の“二度目の人生”が、本当に始まる場所かもしれない。

 


 ――to be continued――

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