エピローグ - 関ヶ原、霧の彼方の物語
関ヶ原の合戦が終わると、あたりを、巨大な白い産着のように優しく覆っていた深く立ち込めた霧は、舞台の巨大な幕が、誰にも気づかれぬようにゆっくりと、そして静かに巻き取られていく。露に濡れた、無数の草木が、眠りから覚めたように、徐々にその瑞々しい姿を現し始める。遠くに見える山々は、夜の帳が明けたばかりの空を背景に、墨絵のような濃淡をたたえ、その、どこまでも続く稜線を、鮮やかな、吸い込まれるような青空が、細い筆で引かれた線のように縁取っていた。数万の兵士たちの怒号と悲鳴が木霊した、昨日の激しい喧騒が、幻だったかのように、空気はひんやりと澄み渡り、時折、どこからか、遠い記憶を呼び覚ますように運ばれてくるのは、焦げ付いた土の、かすかな苦い匂いや、ほんの微かに残る、鼻の奥をくすぐる硝煙の、物憂い香りだけだった。
勝者となった、老獪な徳川家康は、その、大地を踏みしめるような盤石な足取りで、静かに、しかし確信に満ちた眼差しで、広大な天下を見据えていた。彼の、深く刻まれた皺の奥にある瞳の奥には、幾多の、眠れない夜に練り上げられた策謀と、幾度もの、血を伴う決断が、年輪のように積み重なり、揺るぎない自信と、これから、彼の強固な意志によって築き上げるであろう、新たな時代の、ずっしりとした重みが、静かに、しかし確かに宿っているようだった。一方、彼の野望の前に、脆くも敗れた、石田三成の、誇り高き姿は、もはや、広大な関ヶ原の地の、どこにも見当たらなかった。彼が、純粋な、そして一点の曇りもない「理想」と信じて、命を懸けて追い求めたものは、現実という、あまりにも高く、そして冷たい壁に阻まれ、儚いシャボン玉のように、脆くも、音もなく崩れ去ったのだ。その、劇的な敗北は、時に、美しい理想だけでは、現実の、複雑な国家を統治することは、いかに困難であるかという、冷徹な、しかし動かしようのない真実を、沈黙の雄弁のように、静かに物語っていた。家康の掲げる、「現実」という名の、容赦ない力は、これから、ゆっくりと、しかし着実に、この国の、未来の形を、決定づけていくことになるだろう。
戦の流れを、巨大な川の流れを変えるように、決定的に変えた、若き小早川秀秋の、劇的な裏切り。その、歴史が大きく動いた瞬間、彼の、若い胸には、一体どのような感情が去来したのだろうか。未来への、焦燥という名の熱い炎、保身という名の冷たい打算、あるいは、良心という名の、ほんの一抹の、しかし消えることのない呵責の念か。勝利という、誰もが欲しがる果実を、その手にしたにも関わらず、彼の、まだ若い表情には、晴れやかな喜びの色は微塵もなく、むしろ、深い、底なし沼のような陰りが、重く漂っていたのかもしれない。裏切りという、決して清廉とは言えない行為は、たとえ、望んだ勝利という果実を手に入れたとしても、決して埋めることのできない、深い空虚感を、彼の、まだ多感な心に残したことだろう。
そして、歴史の、華やかな表舞台に立つこともなく、英雄として記録されることもない、名もなき、無数の足軽たち。彼らはただ、それぞれの、小さな故郷に残してきた、愛する家族の顔を、戦の合間に、遠い星を眺めるように思い浮かべながら、あるいは、明日をも知れぬ、不確かな運命に、漂流する木の葉のように身を委ねながら、ただ、主君の、理解を超えた命令に従い、重い刀を振り上げ、足元を汚す泥にまみれて、必死に戦った。彼らの、名もなき胸に抱いたであろう、ささやかな希望、拭い去れない恐怖、そして、全てが無に帰すような絶望は、誰にも語られることなく、ただ、一人ひとりの、深い心の奥底に、沈殿物のように静かに沈み込み、やがて、彼らの肉体と共に、静かに土に還っていく。
合戦とは、勝利と敗北という、あまりにも明確な結果だけが、後世の、巨大な石碑のような歴史に、大きく、そして永遠に刻まれるものだ。その、勝敗という結果に至るまでの過程で、繰り広げられたであろう、無数の、名もなき人々の、喜び、悲しみ、怒り、恐れといった感情、未来への希望と絶望が入り混じった葛藤、そして、それぞれの、誰にも語られることのない小さな物語は、遠い日の記憶のように、時の流れの中で、静かに、そして容赦なく風化していく。しかし、あの日、それぞれの、拭い去れない思いを胸に抱き、関ヶ原の、広大な地に集った、全ての者たちは、間違いなく、その、歴史が大きく動いた、まさにその瞬間、「歴史の中心」に、確かに立っていたのだ。彼らの、小さな存在と、それぞれの行動が、その後の、長く続く日本の行く末を、決定づけたと言っても、決して過言ではないだろう。
関ヶ原の、血と鉄の匂いが染み付いた戦いは、遠い、過ぎ去った過去の出来事となった。しかし、あの日に、吹き荒れた、乾いた秋の風、全てを覆い隠すように立ち込めた深い霧、そして、それぞれの未来を懸けて交錯した、無数の、言葉にならない思惑がなければ、私たちが生きる、今という時代もまた、決して存在しなかったのだ。だからこそ、私たちはもう一度、静かに耳を澄ませてみよう。あの、全てを覆い隠す霧の中で、それぞれの、言葉にならない思いを胸に抱きながら、確かに交わった、名もなき者たちの、小さく、しかし確かに存在した声に。歴史の、華やかな表舞台の陰に埋もれた、一人ひとりの、かけがえのない物語に。
静かなる残響──群青の関ヶ原 三詠スミ @mitsuyosumi
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