第二章 2-3. - 関ヶ原、終焉の序曲
そして、ついに、その決定的な瞬間は、静かに忍び寄る影のように、前兆もなく、あまりにも予期せず訪れた。
昨日まで、巨大な壁のように同盟軍の西の側面を重く守っていた、松尾山の頂に、巨大な黒い塊のように配置された、小早川秀秋の、多数の、押し寄せる波のような軍勢が、ゆっくりと、しかし確実に、その沈黙を破り、動きを開始したのだ。
家康の眼が、そのわずかな変化を捉えた瞬間、まるで遠雷の兆しを感じ取る猟犬のように、その身を僅かに強張らせた。
(……来たか)
だがその直後、筋肉の緊張は溶け、代わりに深く、長年の渇きを癒したような、満足感の色を静かに湛えた重い頷きを、一度、確かに打った。
それは歓喜でも高揚でもない。ただ、積み上げてきた全てが、ついに「形」となって顕れたことへの、静かな肯定だった。
しかしその頷きの裏に、誰にも見せぬ一抹の感情が微かに揺れていた。
(あの少年に、この裏切りの刻印を押さねばならなかった。……それもまた、戦か)
冷たく計算された策。それを動かすのは人間――血を流す者、裏切られる者、そして利用される者。そこに情を持ち込めば、戦は成り立たぬ。だが、心が疼かぬわけではない。
彼の、凍てつく冬の湖面のような冷たい瞳の奥には、長い忍耐の末に、ついに待ち望んだ、歴史が動く時が来たという、冷酷な計算と、静かな、しかし深い満足感の色が、複雑に、そして静かに混ざり合っていた。
その視線を、すぐ近くに控えていた本多正信が、何気ない風を装ってちらりと盗み見た。その眼差しには、明言はされぬまでも、こう語っていた――
「ようやく、ですな。しかし……代償は小さくはありますまい」
家康は何も答えず、ただ風の音に耳を澄ました。遠く、鉄のぶつかり合う音が徐々に近づいてくる。戦場の鼓動が、確かに変わり始めていた。
(ここから先は、誰にも譲れぬ。わしの手で終わらせる)
老将の胸の内には、静かな覚悟と、それを上回る、圧倒的な冷静さが満ちていた。
「放て。」
家康は、獲物を狙う老いたる狼のように、彼の最も近い、長年の忠実な指揮官たちに、低く、しかしその一言一言に重みを持つ声で、短く、しかし明確に命令を下した。
その瞬間、言葉の余韻が空気を貫き、冬の冷たい風のように、静かに、しかし確実に、東の陣営全体へと伝播していく。まるで、それが予め定められていた運命であるかのように。
――本当に、これでよかったのか?
一瞬だけ、家康の胸中に、微かな迷いがよぎった。かつて、あどけない笑みで頭を下げてきた、あの若き大名の姿が、記憶の片隅にちらついた。あれほどの若さで、己の「居場所」を探し求め続けた男に、自らこの道を選ばせる術はなかったのかと。
だが、その思考は、黒煙と轟音によって断ち切られた。
次の瞬間、以前から、獲物を待ち構える罠のように注意深く準備されていた、多数の、熟練した鉄砲隊が、地獄の底から響くような轟音と共に、黒煙を空へと激しく吐き出し、死を運ぶ、致命的な弾丸の雨を、昨日まで、兄弟のように隣で肩を並べていた、敵となった小早川秀秋の、裏切りの軍勢へと、容赦なく発砲したのだ。
その光景を、家康はただ、微動だにせず見下ろしていた。
(躊躇えば、すべてが瓦解する。これは情ではなく理の問題だ)
彼の冷静は、決して無感情ではなかった。ただ、数多の敗北と失策を乗り越えてきた男にとって、感情を挟む余地など、とうの昔に削り取られていたのだ。
この、予期せぬ、そして容赦のない東軍の攻撃は、秀秋の、優柔不断だった、天秤のように揺れ動いていた正式な決断を、外部からの、あまりにも強大な力によって、最終的に、そして強制的に後押しする、決定的な、そして不可逆的な引き金となった。
その事実を、家康は知っていた。知っていて、あえてそうした。
彼は、自らの感情の断片に耳を傾けぬように、再び視線を戦場へと戻し、心の奥底でただ一つの言葉を繰り返した。
(これでいい。……いや、“これしかなかった”。)
裏切りの、黒いインクを落としたように広がる波は、悪性の伝染病のように、瞬く間に、これまで辛うじて保たれていた同盟軍全体へと、等比級数的に、そして壊滅的に広がっていった。
「……始まったな」
家康は、遠くを見つめたまま、誰にも聞こえぬほど小さく呟いた。声に喜びの色はない。むしろ、その口調には、どこか凍りついたような静けさと、わずかに沈んだ翳りすらあった。
小早川秀秋の、あまりにも衝撃的な例に続くように、脇坂安治、朽木元綱、そして、以前から、東の陣営との、隠された水面下の繋がりが、陰湿に囁かれていた他の、日和見主義の武将たちも、一人、また一人と、昨日まで、熱い血潮を共に分かち合い、同じ理想を追いかけていたはずの同盟軍に、何の躊躇もなく、冷酷に牙を剥き始めたのだ。
――ここでためらえば、すべてが水泡に帰す。だが……
一瞬、家康の胸中にざわめくものがあった。それは、武将としてではなく、人としての、かすかな躊躇だった。自らの周到な策が、目の前で確実に結実していくのを、どこか他人事のように見つめながら、彼の胸には、予想していたはずの展開に対して、妙な空虚が広がっていた。
裏切りは、計算通りだった。いや、それ以上に、完璧すぎた。
それでも、かつて語り合った言葉、握った手、共に夢を見た者たちの姿が、勝利の予感に紛れて、皮膚の裏でざらつくように疼くのだった。
偉大な、誇り高き西軍は、基礎を失った、砂でできた脆い城のように、急速に、そして不可逆的な方法で、音もなく、しかし確実に瓦解し始めた。
家康は、瞼の裏に浮かぶその光景を、遠い絵巻のように見つめながら、そっと目を細めた。
――これが勝利の味か。だが、それが、誰かの裏切りの上に築かれるものであるならば……それを「正しさ」と言い切ってよいのだろうか?
けれども、その問いは、彼の中で声になることはなかった。
彼は、冷静に、すべての局面を制御する指揮官として、再び視線を戦場へと戻し、内心に芽生えた一抹の感情を、氷のように凍らせた。
そして、ただ一つの真実だけが、彼の心の底に沈殿していた。
――勝利は、結果である。そこに感情は不要なのだ。
戦場の、これまで均衡を保っていた、繊細な天秤のような力学は、突然、歴史を刻む決定的な出来事を境に、劇的な、そして不可逆的な変化を遂げた。
「……ああ、これで、決まった」
家康は、誰に向けるでもない声で、ひとつ、低く呟いた。声の響きには、勝者の喜びというよりも、長きにわたる沈黙の果てに訪れた、冷たい納得のような重みがあった。
同盟軍の、組織的な、わずかに残っていた抵抗は、霧が晴れるように速く消え去り、そこには、戦う意味を失い、本能的に安全な場所を求めて、無秩序に、群れを失った羊のように逃げ惑う、黒い、絶望的な兵士たちの、巨大な、そして制御不能な海だけが残されていた。
――誰もが、命が惜しい。理想や忠義よりも、まず生き延びることだ。だが、私は……違うのか?
一瞬、家康の中に浮かんだ思考は、すぐに自身の表情から排除された。だがその断片的な独白には、自身が「理」を語る者として振る舞いながらも、他者の「情」や「恐れ」を否定しきれぬ人間らしさが、確かに息づいていた。
東軍は、この、二度と訪れない偉大な好機を、飢えた狼のように決して逃すことなく、以前からの、精密機械のように注意深く練られた戦略プランに従い、組織化された、訓練された狩人のような動きで、四方八方から、疲弊しきった同盟軍を、巨大なプレス機のようにプレスし始めた。
戦場の端では、捕らえられた西軍の将たちが、怒号と悲鳴を上げていた。その中には、かつて茶を酌み交わし、語らった顔も混じっている。
家康のまなざしが、ほんのわずかだけ揺れる。
――これが「勝つ」ということか。勝利とは、歓喜に酔う瞬間ではなく、情を捨て、理を貫いた先にしか訪れぬものだ。
だが、それをわかっていたはずの自分の心が、今この瞬間、どこかで迷いの芽を出している。
それでも彼は、顔にその感情を浮かべることなく、ただ泰然と静かに、未来の覇者として、戦場の成り行きを見つめ続けた。
家康は、中央本部の、小高い丘の上から、眼下の、地獄絵図のような全ての戦場のパノラマを、冷徹な観察者のように冷静に観察した。
――予想通りだ。いや、ここに至るまで、あらゆる道が、この一点へと集約されるように設計してきたのだ。
同盟軍の、あまりにも迅速な、そして壊滅的な崩壊は、彼の、長年の経験に裏打ちされた予測を、一つとして裏切ることはなかった。
だが、胸の奥に、わずかな沈黙が残った。これほどまでに完璧に、そして冷酷に物事が進んだことに対する、わずかばかりの不安。まるで、誰かに心の内を覗かれたかのような感覚。自らが描いた未来が、あまりにも忠実に現実になったとき、人はなぜか、恐れを抱く。
――これでよいのだ。情に流されては、理の国は築けぬ。だが、それでも……。
そして、予期された、そして確実な勝利の、最終的な、疑いようのない確認を得た彼の瞳には、偉大な戦略家としての、冷酷なまでの計算と、偉大な指導者としての、静かで深い自己満足の色が、夜空に輝く星のように明確に宿っていた。
配下の一人が、無言で彼の顔を伺った。家康は応えず、ただ頷いた。それだけで十分だった。冷たい風が頬を撫でていったが、彼の目にはそれすらも、確信に満ちた凪のように映っていた。
――これで終わる。いや、ようやく始まるのだ。真に理が支配する国の、はじまりが。
その内心に、長く刻み込まれてきた渇望が、ゆっくりと、温かな満足へと変わっていく。だが同時に、その渇望がもたらしたものの代償――かつての盟友の裏切り、若者の死、無数の兵の血――が、どこかに置き去りになっていくのを、家康は決して感じていないわけではなかった。
それでも、彼は決して立ち止まらない。立ち止まれば、全てが崩れる。彼は知っていた。勝利とは、たった一人で受け止めねばならぬものだということを。
「時ぞ来た……」
家康は、獲物を前にした老いたる獅子のように低く呟いた。その声は、誰に向けたでもない、むしろ己の内側に染み入るような、長き沈黙の終わりを告げる宣言だった。
彼の手が、長年連れ添った愛馬の、温かくも頼れる肩に触れた。しっかりと、しかし無言で叩いたその仕草には、感傷と決意とが複雑に交錯していた。
(……これが正しき道か。否、もはや問う時ではない。進むしかないのだ)
その一瞬、家康の瞳に、老獪な将としての冷徹さと、老いという現実に立ち向かう一人の人間としての静かな寂寥が、ほんのわずかに交錯した。だが、それも束の間、彼の眉は再び引き締まり、馬に鞭を入れる決断が、その沈黙を破った。
偉大な、そして決定的な戦場へと、自らも身を投じる覚悟を決めたのだ。
彼の威厳ある高い姿が、凍り付いたような冷たい視線を向ける東の兵士たちの中、ゆっくりと、しかし力強く動きを開始した、その瞬間――
地鳴りのような歓声が、大地を揺るがす轟音となって、彼の強大な東の陣営全体から、一斉に、そして爆発的に沸き上がった。
それは、偉大な、そして誰もが認める指導者の出現を、心から歓迎する、熱い忠誠心と、疑いようのない勝利への、揺るぎない確信の、壮大な絵画のような感情的発露だった。
その声の波を背に、家康は一瞬、目を細めた。
(……これが、彼らの望む“未来”なのだろうか)
一抹の疑念が心を掠める。だがその問いかけに答えを出す時間は、今はない。
兵士たちの、疲労の色を隠せない士気は、枯れた大地が雨水を吸い込むように急速に高まり、偉大な勝利の、熱い、そして確信に満ちた雰囲気は、温かいオーラのように、東の空全体を静かに包み込んでいった。
家康の胸には、もはや迷いはなかった。けれども、彼だけが知っていた。
この「決断」が、どれほどの血と、裏切りと、喪失と、忍耐の果てに掴み取られたものかを――
そしてその代償が、戦場を去った後もなお、静かに心の奥で疼き続けることを、誰よりも深く理解していた。
戦場は、もはや、組織化された、整然とした戦いの様相ではなく、個々の、疲弊しきった兵士たちが、本能的な、生き残るための渇望に従い、無秩序に、深海のプランクトンのように戦う、巨大な、そして漆黒の混沌の、果てしない渦へと変貌していた。
同盟軍の、かつての、整然とした隊列は完全に崩壊し、指揮官の、必死の叫び声は、もはや誰の耳にも届かず、騒音にかき消され、多数の兵士たちは、秋風に吹かれる木の葉のように、散り散りに、そして無力に逃げ惑っていた。
だが――その地獄絵図の只中で、家康は一つとして動じることなく、冷徹な観察者の顔を崩さなかった。
(これが、戦の真の姿か……否、これが人の性だ)
かすかに唇を引き結びながら、彼は、かつての自分――桶狭間の泥にまみれ、敗走の最中、震える指で太刀を握っていた若き日の己を、ふと脳裏に思い浮かべた。そして、心のどこかで問い直す。「あのとき、私は何を守ろうとしていたのだ? 今、それを手にしたというのか?」
しかし、すぐに思考を断ち切るように、家康は、目の前の“現実”へと意識を引き戻した。
彼は、老獪な狐のように、冷静さを保ち続けた。
長年の経験を持つ狩人が、逃げる、疲弊した獲物を、冷たい、しかし鋭い視線で追い詰めるように、彼は、戦場全体を注意深く観察し続けた。
彼の周囲では、部下たちが次々と命令を仰ぎ、時に言葉少なに頷くその様に、どこか畏敬と安堵の念が混ざっていた。ある若き将が、震えを隠せぬ声で「殿、これで……本当に……」と呟くのを聞き、家康はそれに答えることなく、ただ眼差しを前へと向けた。
(情は、戦場に持ち込むべきではない。だが、私の中の“人間”は、確かに疼いている)
同盟軍の、抵抗する意志を失った残存勢力を、彼は、熟練した漁師が網を操るように、一つずつ、確実に捕捉し、自らの強大な軍を、最終的な、そして完全な殲滅へと、静かに、しかし容赦なく誘導していった。
――これは、勝利への道だ。
しかし、それはまた、誰かの「かつての夢」を踏みつける行為でもある。
彼の瞳には、冷たい鋼のような輝きと、ほんのわずかに沈む影――「為すべきことを為す者」としての宿命と、「果たして、これが真に正しかったのか」という、自問の気配が、かすかに、しかし確かに交錯していた。
彼の、冷たい、しかし全てを見通す視線の先には、もはや、「戦後」の、静かで、しかしどこか冷たい風景が、生々しく、そして現実的に広がっていた。
だが、その風景は――彼にとって、待ち焦がれた光の到来であるはずなのに――どこか、肌に刺さるような異物感を伴っていた。
(これで良い。……いや、本当に、良いのか?)
自らの歩んできた道が、ついに終着点へと収束しつつあるその実感に、胸の奥がわずかに軋んだ。あれほど渇望し、何度も夢に見た“覇道の頂”は、意外なほど冷たい色彩を帯びて、彼の前に姿を現しつつあった。
偉大な勝利の先に、必然的に待ち受ける、この国の新たな秩序――それは、中央集権化された、強力で、そして揺るぎない権力の下、長期的で、安定した平和が約束された、彼の、長年の悲願である理想とする社会だった。
だが、かつての三河の少年が、泥に塗れながら空を見上げていた日々を、家康は時折、思い出すことがある。
(あの頃のわしは、「勝ちたい」と願っていたのではない。――「終わらせたい」と願っていたのだ。終わりなき闘争を、恐怖を、裏切りを)
そう、彼は勝つために戦ってきたのではない。負け続ける日々を断ち切るために、ただ、生き延びるために、血を吐くように歩き続けたのだ。
そして今、その歩みの果てに見える「勝利」は、どこか、己の人間としての感情を切り捨てた末に掴んだ“冷たすぎる栄光”のようにも感じられた。
彼の、冷え切った夕空を見上げる眼差しの奥には、偉大な戦略家としての、冷酷なまでの計算と、偉大な指導者としての、静かで深い自己満足――そして、その狭間に揺れる、ごくわずかに震える疑念が、夜空に輝く星のように、はっきりと、しかし言葉にならぬ形で、宿っていた。
「……これが、理想の果てか」
その呟きは、誰の耳にも届くことなく、冷たい風の中へと、静かに溶けていった。
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