序章 0-2. - 関ヶ原前夜:霧に隠された思惑
天下分け目の決戦の地、関ヶ原。盆地を覆う深い霧は、巨大な白い毛布のように、周囲の景色を曖昧に、そしてどこか非現実的なものに変えていた。両軍の兵士たちは、それぞれの胸に抱く、言葉にはできない様々な思惑を、大切な秘密のように抱えながら、静かに、しかし着実に、それぞれの持ち場へと散らばり、布陣を開始していた。
西軍は、巨大な、しかし口を開かない要塞のような堅牢な大垣城を背に、広大な、しかしどこか心許ない陣形を敷いていた。その、数から言えばごくわずかな兵力ながらも、彼らを繋ぎ止めていたのは、幼き豊臣家への、熱病のような忠義と、石田三成という、一本の折れない槍のような男の、固い、しかしどこか危うい決意だけだった。
一方、東軍を率いる徳川家康は、老獪な政治家であり、同時に、幾多の戦場を生き抜いてきた経験豊富な戦略家でもあった。彼は、熟練した漁師が網を投げるように、各地の大名たちへ、温かい、しかし計算された書状を、絶え間ない流れで送りつけていた。土地や富、あるいは、過去の、蜘蛛の糸のように複雑に絡み合った恩義に訴えかけ、彼らを、東の陣営という、巨大な、しかしどこか冷たい磁石へと、静かに、しかし着実に引き込もうとしていた。その働きは、地中で蠢く根のように水面下で着々と進行し、すでに多くの、風見鶏のような大名たちが、家康の、悪魔の囁きのような甘い言葉に、心を、熟した果実のように揺らし始めていた。
中でも、西軍の命運を握る、小早川秀秋や吉川広家といった、重要な地位にある人物への工作は、特に念入りに行われていた。彼らの心には、豊臣家への、過去の、しかし薄れつつある忠義と、己の、不確かな未来への、拭い去れない不安が、まだらの模様のように入り混じり、その、天秤のように揺れ動く動向は、同盟軍内部にも、言葉には出さない、しかし誰もが感じている、隠された不安の、底なし沼のような影を落としていた。
開戦は、もはや時間の問題だった。空気は、目に見えるほど張り詰め、両軍の兵士たちの間には、言葉にならない、鉛のように重い沈黙が漂っていた。東の軍の、精密機械のような組織性と、家康の、泰然自若とした、落ち着き払った態度は、彼らの、積み重ねられた経験と、勝利への揺るぎない確信を、静かに物語っていた。対照的に、西軍の陣には、熱に浮かされたような明らかな焦燥の色と、表面下で進行している、隠された亀裂の兆しが、枯れた井戸の底に溜まった水のように感じられた。
決戦前夜。深い霧が、大地を、死者の衣のような白いベールで覆い尽くし、周囲の景色を、現実の世界から切り離された、幽玄な絵画のようなものに変えていた。そのような、目の前に薄い膜が張られたような視界の悪さの中、各将は、それぞれの陣幕で、あるいは、ひっそりとした寺の境内で集まって、明日の、歴史に残るであろう戦いの戦略を、最後の晩餐のように、静かに、しかし念入りに確認していた。早い時間の、頼りない灯が、それぞれの陣幕から、迷子の魂のように弱い光を放ち、陰鬱な、モノクロームの風景の画家の、繊細な筆のように、夜の、どこまでも深い闇を、ほんのわずかに、しかし確かに貫いていた。
家康は、長年連れ添った老馬のように、自身の経験と、磨き上げられた知略を最大限に活かし、熟練した職人のように冷静沈着に、そして、精密機械を組み立てるように緻密に、翌朝の、待ち望んだ勝利への筋道を、一つずつ、丁寧に、石畳を敷き詰めるように紡ぎ上げていた。彼の脳裏には、すでに、勝利の、鮮やかな絵巻物のような場面が、現実のものとして、はっきりと描かれているようだった。
一方、石田三成もまた、寝付けない夜を過ごす子供のように、落ち着かない夜を過ごしていた。彼は、自らの、高潔な理想と、同盟軍の、先行き不透明な将来への深い憂慮の間で、激しい嵐の海を航海する小舟のように、激しく葛藤していた。それでも、彼は、夜空に輝く星のように、自覚していた。自己犠牲という、最も困難な道を示すことによってのみ、兵士たちの、消えかかった蝋燭のような士気を、再び燃え上がらせることができると。彼は、独り言のように低い声で、しかし、その言葉には、燃えるような熱を帯びた言葉で、最も近い、信頼できる指揮官たちを励まし、幼き豊臣家への、決して揺るがない忠義と、目の前に立ちはだかる敵を、必ず打ち倒すという、固い決意を、改めて彼らに、古い教訓を語るように諭した。
そして、長い悪夢が終わるかのように、長い夜が、ようやく明けようとしていた。東の空が、誰かがそっと筆を走らせたように、徐々に明るくなり始め、周囲を覆っていた、白い綿のような霧も、ゆっくりと、しかし確実に薄れていく。誰もが、自分の心臓の鼓動を聞くように自覚していた。今日という日が、自身と、そして、この国の歴史にとって、決して二度と訪れない、かけがえのない転換点となるだろうと。空気は、まだ、冷たい刃物のように冷たいままだったが、兵士たちの、静かに燃えるような胸には、隠された、熱いものが、地底のマグマのように、静かに、しかし確実に込み上げてきていた。運命の、息を止めるような刹那は、もう、すぐそこまで、音もなく、しかし確実に迫っていた。
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