静かなる残響──群青の関ヶ原

三詠スミ

プロローグ - 関ヶ原、朝焼け前の群像

朝焼け前の深い藍色が、静脈のように関ヶ原の盆地を静かに包み込んでいた。夜露に濡れた草葉は、踏みしめる足元で、ため息のようにひっそりと音を立てる。遠くの山並みは、朝靄という名の薄いベールの中にぼんやりと霞み、巨大な、しかし眠たげな動物たちが、身を潜めているかのようだった。空気は、肌を刺すように冷たくて湿っていて、土と草の、どこか懐かしい匂いに、微かに、しかし確かに、鉄と火薬の、焦げ付いたような匂いが混じり始めていた。


これは、たった一日で、その後の数百年を決定づける結末を迎えた、運命を左右する戦の物語である。しかし、その短い、夢のような一日の背後には、数えきれないほどの多層的な前日譚が、古代の地層のように、静かに、しかし確実に積み重なっていた。それぞれの胸に抱く、言葉にならない想い。決して譲れない、個人的な信念。ぼんやりとした、しかし確かに存在する未来への希望。そして、何よりも守りたい、手のひらの中の小さな温もり。それらが複雑に、絡み合った糸のように絡み合い、この、歴史的な決定的な一日に、静かに、しかし激しい勢いで流れ込んでいたのだ。


信義という、目には見えないけれど、確かに存在する羅針盤を唯一の指針とし、過ぎ去った時間の中で築かれた、過去の繋がりを、古い友人の手を握るように固く守ろうとする者もいた。彼らの瞳には、過ぎ去った時代の優しい光が宿っていた。一方で、まだ見ぬ未来の、希望という名の眩しい光を、遠くの灯台のように見据え、古くなった秩序を、躊躇なく打ち破り、自らの手で新たな時代を築き上げようと、凍てつくような厳しい目で前を見据える者もいた。彼らの背中には、新しい時代の冷たい風が吹いていた。誇りを、高く掲げられた旗のように背負い、決してそれを汚すまいと、誰にも聞こえない固い決意を胸に抱く者もいれば、正義や大義といった、少しばかり大げさな言葉ではなく、ただ単純に、そこにいる家族の、何気ない笑顔を守るため、足元の泥にまみれることも、ためらうことなく厭わない者もいた。彼らの瞳には、守るべきものの、ささやかな温もりが宿っていた。


正義や大義といった、耳障りの良い、けれどどこか空虚な言葉は、掲げられる旗の、鮮やかな、あるいはくすんだ色と同じように、それを語る者の、そしてそれを見る者の、それぞれの立場によって、万華鏡の模様みたいに、千の異なる形へと変貌する。豊臣秀吉が、血と汗と、そして何よりも、狡猾なまでの知略で築き上げた、砂の城みたいに一時的な秩序は、彼の死という、歴史的な決定的な瞬間を境に、脆いガラス細工のように、音もなく崩れ始めた。理という、曖昧模糊としたものを絶対的なものと信じ、過ぎ去った時代の、もはや形骸化した規範を、岩のように頑なな意志で守ろうとする石田三成と、理想論だけでは、誰も生き残れないという厳しい現実の中で、飢えた狼のように、わずかな勝機をも抓住しようとする、冷たい、しかしどこか人間臭い現実主義者、徳川家康が、運命の悪戯のように、歴史的な不可避性として、この、朝靄に包まれた関ヶ原の地で、激しく、そして静かに相まみえることになったのだ。


その、天秤の両端に置かれたような偉大な対立の、長く伸びる影の中で、小早川秀秋は、自らの立ち位置すら、濃い霧の中で見失ったみたいに見えぬまま、冷たい運命という巨大な盤上に置かれた、不幸な、しかしどこか滑稽な駒だった。周囲の、怒号のような騒音と、目に見えない圧力の中で、彼はただ、どちらに転べば、この、残酷なゲームから生き残れるのか、熟練した商人みたいに、冷たい計算を、何度も何度も繰り返していた。名もなき、無数の兵士たちは、それぞれの故郷の、見慣れた風景と、そこに残してきた愛する者の、温かい笑顔のために、操り人形みたいに、何の迷いもなく、彼らの、一度しかない命を、軽い賭け事のように賭けた。一方、歴史に名を残す偉大な武将たちは、数世紀にもわたる、血と汗と知略が染み込んだ経験を、最後の切り札のように注ぎ込み、この、天下分け目の決定的な戦の、複雑な戦略を、精密機械を組み立てるみたいに練り上げていた。


勝者によって、鮮やかな絵筆で描かれる公式の歴史の、都合の良い光の当たる場所の、その冷たい陰で、無数の敗者たちの、誰にも聞こえない静かな叫びは、秋の落ち葉のように、歴史の塵の中に、誰にも気づかれることなく静かに消えていった。だからこそ、今、改めて私たちは、暗闇の中で目を凝らすみたいに注意深く見つめなければならない――あの深い霧に包まれた関ヶ原の地で、それぞれの胸の中で、熱い炎のように激しく交錯り合った、無数の「正しさ」の、目に見えないspectrum(スペクトル)を。それぞれの、譲れない「正しさ」が、激しい奔流のように衝突し、歴史的な偉大な動きの流れ込んだ、この、たった一日の、しかし重すぎる重さを。

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