「ヘラルド・バント子爵。書類の中身も確認せずに署名されましたね。旦那様のことを諜報員（エージェント）と紹介しましたのに」

　私はベールを取ると膝の上に置く。

　書類には、これからバント子爵にかかる費用、つまりロザレス児童福祉施設からの賄賂の返金と不正のお金を受け取ったことへの罰則金が払えない場合、バルラガン伯爵家に請求する旨が書かれている。ただし万一、もしバルラガン伯爵家に迷惑をかけるようならば、爵位を弟に譲位する所存の旨も書かれている。

「よく読んでくださいねとも」

　バント子爵の逸る気持ちと、シメオン様が忠告した言葉が良かったのだろう。バルラガン伯爵家に請求が行ったところで、何の問題も起こらないと思ったに違いない。

「ああ。この書類自体に法的効力はないが、バルラガン伯爵はこの書類を持ってヘラルド・バントを廃嫡にすることができるだろう」

「え？　法的効力はないのですか？」

　シメオン様は署名をした時点から法的効力が発生すると言っていたのに。

「書類に法的効力を持たせるためには王家の承認が必要だ。しかしバルラガン伯爵は事を公にしたくはないんだ。これを王家に提出はできない。夫人を説得するためのみに使われる書類だ」

「では実際は、賄賂の返金と罰金を命じないのですか？」

「いや。賄賂分はバルラガン伯爵家に肩代わりさせて補完する」

　受け取った賄賂を施設へ返金すれば、表面上、そこでは何も起こらなかったということだ。

「つまりヘラルド・バンドの悪事をもみ消すと？」

「そうだ。それがバルラガン伯爵との取引だからな」

「……そうですか」

　私はため息をついた。

「今回はバルラガン伯爵がご子息を処分されますが、普通は貴族が悪事を働いたとしても処分できないことが多いのでしょうね」

　だったら悪事を働いた庶民も処分を受けなくてもいいとは思わない。しかし、貴族だけが罪を逃れるのはやはり納得できない。

「表では難しいな」

「ということは、裏で処分する手があるのですか」

「手段だけならいくらでもある」

　穏便にいかない手段もあるということだろうか。しかし私はそれ以上、追及することは止めた。

「ところで、これでヘラルド・バントをロザレス福祉施設の保証人から下ろすことができるとして、この後はどうするのですか」

「不正の疑いが濃厚な施設があると密告すれば、調査員が動くことになっている。そこで調査員がロザレス福祉施設に視察に訪れた際、裏帳簿を発見できるよう密偵が誘導する」

　本当は都合よく裏帳簿など見つかるはずもない。調査員もまた裏で動いている組織があることを認識しているのだろう。

「そうですか。あ。でも裏帳簿はどうするのですか？　バント子爵の名が載っているのでは？」

「バント子爵の名が載っていない裏帳簿に差し替えてある」

「そうですか。でしたら、バルラガン伯爵との約束も守れますね」

　後はただ、次男さんや三男さんのこれまでの努力が報われることを祈るばかりだ。

「ああ。ところで今回の薬はまさに毒薬だったんだな。短期間で脱毛させるなど、体に優しい薬とは思えない」

「ああ。先日渡した薬瓶の中身ですか？　あれは水です」

「――は！？」

　私は目を閉じて、胸に手を当てる。

「申し上げたはずです。私は人の健康を守る薬師だと。人の健康を害する薬など、決してお渡しすることはできません」

「だが彼が取引に応じたということは、毛が抜け落ちたということなのだろう？」

「ええ。先ほどバント子爵にも申し上げましたが、脱毛症は特に精神的負担が大敵なのです。薬を服用させた後に、あなたの一番大事なものを精魂尽き果てるまで根こそぎ奪う薬だと必ず伝えてくださいと申し上げましたね。そう。旦那様がおっしゃったように、言葉こそが毒薬だったのです。病は気からと申しまして」

「それでは結局、薬師と言いながら精神的苦痛を与える毒薬を飲ませているだろう」

　顔を引きつらせたシメオン様の言葉は聞かなかったことにする。――なお。

「あ、いや待て。水だと言ったな？　では無色透明、無味無臭の薬を作った自分を大いに労われと言ったのは何だったのか」

　という言葉も当然無視する。

「バルラガン伯爵は薄毛でいらっしゃいます。バント子爵は遠くない未来、バルラガン伯爵と同じ道を辿ると懸念されていたのでしょう。実際、薄くもなっていたのだと思います。頂いた資料によりますと、バント子爵は増毛に効くという薬草を色々取り寄せていました。おそらくウィッグも、お洒落と薄毛隠しを兼ねてのものでしょう」

「そこへ来て、精魂尽き果てるまで根こそぎ奪う薬か……。まさに胸が詰まる思いだっただろうな」

　なぜ同情するような目をなさるのか。

「私はてっきり男としての矜持を奪――いや。何でもない」

「何ですか？　男としての矜持とは。他に健康を害する魔法の言葉がありましたか？　今後の参考にぜひご教示ください」

　効果が出る魔法の言葉が他にもあるとは。これから絶対に役に立つはずだ。

「いや。教示しろとか、無茶ぶりすぎるだろう」

「え？　何とおっしゃいましたか？」

　小言でぶつぶつ何かを言っているシメオン様の声を拾おうと近付いたものの。

「……あ。も、申し訳ありません」

　気付けばシメオン様の顔が間近に迫っていて、私は慌てて離れようとしたが、彼の片腕が私の背に回されて身動きが取れなくなる。

「君こそが薬だな。私の心をかき乱す毒薬」

　小さく笑って、熱い手で私の頬をそっと触れるシメオン様。

「シ、シメオン様？」

「――だが、君から手渡される薬なら、たとえ毒薬でも口にしよう」

「っ！」

　熱を帯びた瞳で見つめる彼に胸の鼓動が激しく高鳴った。

　直後。

「あら。またお邪魔だったみたいね」

「ひぃっ！？」

　突如、メイリーンさんの声が聞こえてきて、私は反射的にシメオン様の胸を押し返す。しかし今日の彼はびくともしない。

　メイリーンさんは平然と私たちに近付いてきた。

「アランブール伯爵。夜のかすみ草をご指名かしら。何なら特別室をお貸しいたしましょうか？　ただしこの子は高いわよ」

「いくらだ？　言い値で払おう」

「――もう！　二人して何を遊んでいるのですか！　夜のかすみ草は薬師として以外、指名を受けませんから！」

　顔を熱くしながら拳を作り、二人のやり取りに対して抗議する。

「ならばさっさとお帰りなさい。ここからは大人の時間よ。今のあなたたちはこの場にふさわしくない」

　メイリーンさんはくすりと笑って続けた。

「ね。お子様のお二人さん」