第10話 闇の仕事を請け負う一族

 夜の闇で、道中、窓から見える風景は分かりづらかったが、止まったのがアランブール伯爵家の屋敷前だということは分かった。

 シメオン様が馬車の窓を開けると門衛さんが急ぎ足でやって来る。夜間担当の門衛さんなのかもしれない。以前の門衛さんではなかった。


「報告を」


 彼は言葉短く尋ねる。


「特に異常はありません」

「分かった」


 門衛さんが門を開くとまた馬車が動き出し、屋敷へと向かった。

 再び静まり返った馬車の中の重苦しい空気が私にのしかかってくる。彼と一緒にいて、こんなに息詰まる瞬間などなかった。


 私は、裏の思惑を抱えていたシメオン様が恐ろしいのだろうか。好意があるように見せて実は目的のためのフリだったと、騙されていた自分が悔しいのだろうか、悲しいのだろうか。けれど私だって彼の好意を利用しようとした。私には責める権利などない。

 一方で、彼は最初から騙すつもりで私に近付いたのならば、私が責められる筋合いもないはず。なのにこの豹変ぶりは何なのだろう。


 重い空気と答えの出ない思考がさらに自分を追い詰める。

 ここでないならどこでもいい。早くこの空間から逃れたい。

 そう思いながら重ねた手を強く握りしめた。


 馬車が止まり、扉が解放される。シメオン様が先に降りて馬車の中から姿が消えると、ずっと止めていた息を吸った気分になった。


「エリーゼ嬢」


 シメオン様の私を呼ぶ声が聞こえるまでは……。

 先ほどの様子から考えて、彼に何度も同じことを言わせるのは避けるべきだ。私は扉まで近付くと手を借りて馬車を降りた。

 地に足が着くと彼は私の手首を強くつかんだ。逃がさないという強い意志を感じる。つかまれた手首はじんじんと熱いのに体は冷え切り、私はおぼつかない足で引かれるまま彼の後を追う。


「旦那様、お帰りなさいませ」


 扉が開かれると、前回同様、侍従長さんがシメオン様に礼を取って出迎えた。そしてすぐに私に向き合う。


「こんばんは、エリーゼ様。ようこそお」

「彼女は客人ではない。彼女は私が金で買った――妻だ」


 ぴしゃりとはね付けるシメオン様に侍従長さんは、ほんの瞬きほど驚きの表情を見せた。


「旦那様」


 金で買ったと言う彼の言葉に胸を深く突き刺されて痛い。同時に妻だという言葉に頭を殴られて混乱する。


「ブルーノ、彼女の部屋を用意してくれ」

「……かしこまりました」

「エリーゼ嬢、君の部屋の準備ができるまで、応接間でこれからの話をする」


 色々なことが起こりすぎて許容量一杯だった。私は手首を引っ張られて促され、視線を落としながら足を前に進める。

 案内された先は前回と同じ部屋のはずなのに、今は夜で厚みのあるカーテンで閉め切られているせいか、明かりが灯されていても陰鬱な印象を受けた。あるいは私の心証だったのかもしれない。


 ようやく手首を解放され、ソファーを勧められて腰かける。

 シメオン様がテーブルをはさんだ向かい側のソファーに腰を下ろした気配がしたが、私はうつむいたまま口を開かなかった。疑問だらけで何から話せばいいのか、分からなかったから。


「エリーゼ嬢」

「はい」


 名を呼ばれて、ただ無意識に顔を上げた。


「これからのことを話す」

「はい」

「私は君をお金で買った。今後は私の指示に従ってもらう」

「はい」


 正面に座るシメオン様は確かにシメオン様なのに、私の知らない誰かのように見えた。


「君は私の妻となり、アランブール伯爵夫人としての務めを果たしてもらう」


 お金で買ったのならば、妻になどしなくても良いのに。私のことなど好いていないと気持ちを暴露したのに、なぜいまだ妻にこだわるのだろう。一度は結婚の申し出を断った私への当てつけなのだろうか。

 しかし私はお金で買われた身だ。ご主人の命に背くことはできない。彼の指示を一言一句、受け入れるだけだ。


「はい」

「……私の妻となる以上、君の弟君の学費と生活は保障する」

「ありがとうございます、ご主人様」

「君は私の妻になると言っただろう。その呼び方はやめろ。体裁が悪い」

「かしこまりました。……旦那様」


 もう親しげに名前を呼ぶことすらためらわれる。私は侍従長のブルーノさんのように旦那様という呼び方をすることにした。

 シメオン様は何か言おうと口を開きかけたが、言葉を出すことはなく、ただ一つ息を吐いた。


「それとバリエンホルム子爵家のことだが、こちらは私との結婚で問題は解消されるだろう。弟君が正式に当主になるまでの間、叔父夫婦に任せられないと思うのならば、別の後見人を派遣してもいい」

「……ありがとうございます」

「次に私の一族について知ってもらう。ここからの話は他言無用だ」


 彼の重い口調に、これを聞いたらもう引き返せないのだろうと本能的に察した。しかし私は、はいと肯定するしかない。


「現在私は、親元となるアルナルディ侯爵が持っていた爵位の一つ、アランブール伯爵を継承し、二つ年下の私の弟がアクロイド子爵を継承している」


 母が病に伏せたので私はデビュタント以降、パーティーなどには出席していない。だから弟さんとお目にかかったことはない。もっともシメオン様も私の記憶などないだろうけれど。


「将来的には私か弟が、アルナルディ侯爵の爵位を継承することになる」


 嫡男が優先的に親の爵位を譲り受けるものだと思っていたから意外だ。

 そんな考えが顔に出ていたのだろうか。彼は続けた。


「アルナルディ侯爵家ははるか昔より実力主義で、次男であろうと、三男であろうと実力がある者が侯爵位を継ぐこととされてきた。上から指示を下す者が統率力、判断力のない愚か者であれば任務に支障をきたすからだ。現に私の父は次男だったが、侯爵位を継いだ」

「任務、ですか?」

「古くより、王家を影から支えるために闇の仕事を請け負う密偵がいる。王家に仇なす者、この国の秩序を乱す者、平穏を脅かす国などの政治的、軍事的情報を探って適切に処理し、国の安全と秩序を維持するための影の組織。それを統率するのが我ら一族だ」


 物語を読み聞かせてもらっている気分だ。自分の世界とははるかにかけ離れていて、まるで現実感がない。


「爵位を継いだ時から、すでに次世代のアルナルディ侯爵家当主となるための試験は始まっている。次の当主となるため、私の妻となる君にも手伝いをしてもらう」


 シメオン様は、目の前の現実から逃避しかけている私を引き戻すようにきっぱりと言い切った。

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