闇組織の伯爵に嫁いだ薬師は今日も特製の毒薬を作る
あねもね
第1話 個人的な話
「どれだけの効果か試させてもらう」
信用されていないのは明らかだった。冷たくそう言い放たれる言葉に、私は緊張で汗ばむ手を強く握りしめ、こくんと小さく喉を鳴らす。
彼は私から受け取った薬瓶をガラスの小鉢に近付けた。小鉢の中には、人間の思惑も、これから起こることも知らずに気持ちよく縦横無尽に泳ぐ一匹の哀れな小魚がいる。
……ごめんね。
いつだって誰かの、何かの犠牲になるのは抵抗する力のない弱いものだ。だから強くなりたかった。強くあろうとした。強いものに抗うことができるだけの力をつけたかった。けれどそれはやっぱり自分より弱いものを犠牲にせずにはいられなくて――。
傾けられた薬瓶から薬液が一滴、水面へと落とされると、まるで水の波紋を消すように魚が元気よく横切っていく。水の色も同様、何の変化もない。しかし程なくして金の輝きを振りまいていた小魚は泳ぐのを止め、ゆっくりと底に沈んでいった。
「どうぞお大事になさってくださいませ」
挨拶と共にお客様を送り出すと間もなくして、からんと軽やかなベルを鳴らして入って来たのは、常連のシメオン・ラウル・アランブール伯爵だった。
「エリーゼさん、こんにちは」
「シメオン様。いらっしゃいませ」
幼い頃は金髪だったのだろうと思わせる明るい褐色の髪で、透き通るような美しい青い瞳を持つ、目を引きつけられずにはいられない美貌の方だ。一方で気さくな雰囲気もあって、社交界では女性から請われるダンスの列が絶えないと言う。アルナルディ侯爵のご子息で、いずれ侯爵を継ぐ方でもあり、私にとっては天上人のような方だ。それでもこうして親しげにお声をかけてくださるのは。
「その後、お加減はいかがでしょうか」
「ありがとう。おかげですっかり良くなった。君が作った薬は本当によく効くね」
そう。私が薬舗を開いているからだ。開業してもう二年になるだろうか。それなりの評判を頂くようになったと思う。しかしアランブール伯爵家ならば、もっと腕の良い侍医様がいらっしゃるだろうと思うのに、なぜか足繁く通ってくださっている。
「ありがとうございます。少しでもシメオン様のお役に立てたのでしたら幸いに存じます」
「ありがとう。……ところで先ほどのお客様は? あ。いや。若い方のようだったから気になって」
「ご高齢の方ばかりではなく、若い方もよくお見えになりますよ?」
「ああ、そうだね。その。若い男性だったから」
「え?」
それはどういう意味だろうか。
まじまじ見つめていると、彼は喉で一つ咳払いする。
「――ああ。ところで今日は個人的な話があって」
「個人的なお話ですか」
少し意味深な言葉に心がざわめく。
これまで当たり障りのない世間話程度はしていたものの、個人的な話とやらはしたことがない。何があったのだろうか。
「お店はいつ頃閉める予定かな。その頃に出直そう」
「今日はそろそろ閉めようと思っておりましたので、少しお待ちいただければ。よろしければおかけになってお待ちくださいませ」
ソファーへと誘導すると、シメオン様はありがとうと腰かけた。
自分の中では値が張った買い物をしたつもりだが、きっとご自宅では品質の良いソファーに座られていることだろう。座り心地に不快さを感じられないといいけれど。
そんなことを考えながら、彼に背を向けて窓を閉める。
「急がせて申し訳ない」
「いいえ。大丈夫です」
笑顔で返事した後、扉から外に出ると扉に掛けている看板をひっくり返して、「本日は終了」の文字に変更する。何気なく見上げると、既に低く傾いていた陽は、朝の爽やかさを塗り替えるように少し寂しくも感じる茜色に染め上げていた。
シメオン様をお待たせしているのだから、感傷に浸っている場合ではない。私は再びお店の中に入ると扉を閉めた。
もしかしたら人に聞かれたくない悩みなのかもしれない。だとしたら鍵をかけずにいて、お店が閉まっていることに気付かず、うっかり人が入って来たら困るだろう。
そう思って鍵に手をかけた――が。
待って。そうなると鍵を閉めた部屋に、二人きりになるということ? いくらご相談があると言っても、未婚の男女が密室に二人きりはまずいでしょう。いえ、シメオン様が私に手を出すなどと、恐れ多いことは考えていない。密室に女性と二人いたと噂されて、彼の名に傷が付いてはと思うだけで。
……でも、もし人に聞かれたくない内容だったら。だけどやっぱり男女が一つの部屋に閉じこもるのはまず――。
「エリーゼさん、もしかして鍵が固い?」
「――ひゃうっ!?」
寸前まで物音一つなかったのに、急に低い声が頭に降ってきて、私は肩を跳ね上げ、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「申し訳ない。驚かせてしまった」
「い、いえ。私こそはしたない声を上げて失礼いたしました」
慌てて振り返ると、困ったように眉尻を下げているシメオン様が見えた。
「鍵は大丈夫? 私が代わろうか?」
やはり彼は鍵をかけることを望まれているようだ。私は何とか笑顔を貼り付けて答える。
「ありがとうございます。大丈夫でございます。どうぞおかけください」
鍵を回してみせて再びソファーを勧めると彼は頷いて戻り、私もタイミングを見計らって向かい側に腰かけた。
「それでお話とは」
「ああ。……実は」
言いづらそうに言葉を詰まらせるシメオン様のお心を解せればと、私は胸に手を当ててみせる。
「どうぞご安心ください。ここでのお話は私だけの胸に秘めます。私にできることでしたらシメオン様のお力になりますので、何でもおっしゃってくださいませ」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて単刀直入に言わせてもらおう。エリーゼさん、私と結婚していただけませんか」
「はい――はい?」
笑顔のシメオン様につられた私も笑顔で答えてしまった。
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