第10話 ずるいのは

 ホームルームが終わった直後、私はカバンを肩にかけて立ち上がる。


「じゃあ、頑張れよ」


 背後から聞こえたれいの声に、胸の奥がふっと温かくなった。


「えぇ。——あっ」


 歩き出しかけた足を止めて、私はふいに振り返る。


ゆう先輩以外に、ちょっかいかけてくる人なんていないから。ポロシャツでも男子と間違えないでよね?」

「わ、わかってるよ」


 澪の顔がみるみる赤くなっていく。


(……よかった。またこうやって、冗談を言い合えるようになって)


 思わず笑みをこぼしながら、教室を出る。


「あっ」


 水筒を忘れていたことを思い出して、慌てて廊下を引き返した。

 しかし、教室に近づくにつれて、妙な声が聞こえてきて……つい、立ち止まってしまった。


「にしても、幼馴染ってだけで、あんなかわいくてスタイル良い子を彼女にできるんだから、羨ましいよなー」


 内容はすぐに把握できた。というか、わかりやすすぎた。

 澪に嫉妬し、私や他の女の子がいないところでバカにすることで、プライドを保とうとしているのだろう。


 山田やまだはやし田所たどころの声が聞こえる。

 恋バナで、恋愛対象外の男子として、真っ先に名前の上がる三人だ。


「お前、もしかしてアレ? 女の子は大切にすべき、みたいなタイプ?」

「いるよなー、そういうの。けどそれ、ただビビってるやつの言い訳だから」

「女なんて、押せばどうにかなるもんなー」


 それらの強がりは、彼らの自信のなさの表れだ。

 醜いとは思ったけど、それ自体はどうでもいい。


 でも、澪に向けられたあの言葉だけは、聞き流せなかった。


(『幼馴染ってだけで』、ですって……?)


 私が澪を好きになった理由は、そんな薄っぺらいものじゃない。

 ずっと一緒にいたからこそ、見えてきたものがある。いいところも、悪いところも。それでも、大好きになったんだ。


(誰がなんと言おうと、私は澪を選んだの)


 怒りよりも、悔しさよりも、ただそれだけが言いたくて、私は教室に戻り、山田たちに言葉をぶつけた。

 しかし、彼らはどうしても、私が澪を好きだという単純明快な事実を認めたくないらしかった。


 しまいには、自分たちは自信がないからって、神崎かんざき君の名前まで出してくる始末だ。

 サッカー部のエースでイケメンの神崎君を持ち上げることで、相対的に澪を貶めようとしたのだろう。


 でも、その虎の威を借る狐作戦は、失敗に終わった。

 他ならぬ神崎君が、会長の仕事から戻ってきて、山田たちを糾弾したからだ。彼らはぐうの音も出なくなっていた。


 これで一件落着だろう——。


「山田たちの気持ちも、わかるよ」

「……えっ?」


 澪の声がしたとき、思わず顔を向けてしまった。


(澪は、何を言ってるの……?)


 私の視線には気づいているはずなのに、澪は静かな口調で続けた。


「神崎は外見も内面もイケメンだし、それ以外にも俺より魅力的なやつはいっぱいいる。俺も正直、幼馴染じゃなかったら見向きもされなかったんじゃないかって、考えたことはあるよ」

「澪、それは——」


 思わず反論しようとしたけど、澪の視線を前に、言葉をなくしてしまう。

 その瞳には明確な意思が宿っていたし、何より、その口元には不敵な笑みが浮かんでいたから。


「でも、今はそんなふうには考えてない。俺がふさわしくないとか言ったら、選んでくれた夏希に失礼だからな」


 ……えっ。


(い、今、なんて……?)


 思考が止まる。心臓が、跳ねるように鳴り出した。

 まさか——そんなふうに思っててくれたなんて。


「正直、まだ自信はないけど——堂々と彼氏だって名乗れるように、何より夏希がこれから先もずっと一緒にいたいと思ってくれるように、頑張るつもりだ」


 その言葉が胸に届いた瞬間、何かが崩れるように、こみ上げてきた。


 自信がないなりに、私と向き合おうとしてくれている。

 迷いながら、でも覚悟を決めようとしてくれている。


 その一言一言に、澪の誠実さがにじみ出ていて——


(……ああ、もう……っ)


 顔を見ていられなかった。まぶたの奥がじんわり熱くなる。

 涙なんて、見せたくないのに。


「じゃ、じゃあまた後でっ!」


 もう限界だった。息が詰まりそうで、気づけば教室を飛び出していた。


 ——そして、廊下の角を曲がったところで、足が止まった。

 誰もいないことを確認して、思わず膝に手をついて深呼吸する。


(な、なにあれ……反則すぎるわよ……!)


 自分でも驚くほど、顔が熱い。鼓動がうるさい。

 怒ってたはずなのに、いつの間にか、澪のまっすぐすぎる言葉に全部持っていかれていた。


(私、ずるいことしたかな……)


 からかったり、強がったり、澪を困らせたり。

 そうやってばかりだったのに——彼は、それでも向き合ってくれた。


(……ずるいのは、澪のほうよ)


 あんなふうに、真剣に言われたら。


(嬉しいに決まってるじゃない……)


 こらえきれず、口元を手で覆った。


 声が出そうだった。嬉しくて、恥ずかしくて。

 この気持ちを、どう伝えればいいのかはまだわからないけれど。

 でも一つだけ、確かに言える。


「澪……好き」


 そう口に出した瞬間、全身の熱が顔に集まった。


「っ〜!」


 声にならない唸り声をあげ、その場にうずくまった。

 だめだ。このままでは部活に遅れてしまう。


「怒られたら、澪のせいだから」


 そう口に出してみると、今度は笑いが込み上げてきた。

 これ以上、一人でいるのは良くない気がして、私は駆け足で部活に向かった。




 その日の帰り道は少しぎこちなくなってしまったけど、澪への想いは強くなるばかりだった。

 運のいいことに、翌日はサッカー部が休みだった。

 だから、てっきり放課後はずっと一緒にいられるって、楽しみにしていたのに。


「ちょっと用事があるから」


 澪はそう告げると、どこかへ行ってしまった。

 今さら疑ったりはしないけど、


(一緒に過ごせる時間、減っちゃうじゃない……)


 帰ってきたら、文句の一つでも言ってやろう。そう思っていたのに——、


「ちょっと、神崎に紹介してもらってさ。美容院、行ってきたんだ。……どうかな?」


 髪型をバッチリ決めてきた澪を前に、私は文句を言うどころか、目を合わせることもできなくなってしまった。


「えっ? あっ、うん……似合ってると思うわ」


 なんとか平静を装ってみるものの、澪の髪が揺れるたびに、香りが鼻先をくすぐるたびに、動悸がどんどん早くなる。


(元がいいのは知ってたけど、なんで髪と眉を整えただけで、こんなに爽やかになるのよ……!)


 心の中で毒づいてみる。

 ——そんな私の動揺は、澪にも伝わってしまったようだ。


「なあ……抱きしめていいか?」

「っ——」


 一瞬、頭が真っ白になる。


(な、なに急に……⁉︎)


 心臓の音が暴走しそうになるのをなんとか押さえつけながら、私はふいと顔をそらして言った。


「そんなの、いちいち聞かなくていいわよ……ばか」

「……そっか。じゃあ、お言葉に甘えて」


 そっと触れるように、澪の手が私の手を取る。

 そして、ゆっくりとソファーへ腰掛けたかと思うと、そのまま優しく、私を抱き寄せた。


「……あったかいな」

「う、うるさいわね。調子乗らないで」


 口ではそう言ったけれど、私は抗わなかった。

 むしろ、自然と力が抜けて、彼の胸元にそっと寄りかかってしまっていた。


(やだ……なんか、落ち着く)


 香水の香りでもシャンプーの香りでもない、澪の匂い。

 それを胸いっぱいに吸い込むたび、体の奥からじんわりと安心感が広がっていく。


 私の背中にまわる腕のぬくもり。

 いつの間にか、指先が彼のシャツの生地をきゅっと握りしめていた。


(なんか……こういうのって、幸せって言うのかも)


 そんなふうに、ぼんやりと思っていた、そのときだった。


「……かわいい」

「へっ?」


 鼓動が跳ねるのが、わかった。


「なっ……! な、なにいきなりバカなこと言ってるのよ⁉︎」


 慌てて澪の胸をぽかぽかと叩いた。

 これ以上言われたら、自分がどうなってしまうかわからない。


 澪も顔は赤くしていたけど、その表情にはどこか余裕があった。

 それが悔しくて、じっとりと見上げてみる。


「……ちょっと垢抜けたからって、急に積極的じゃない」

「自信を持てって言ったの、夏希だろ。……嫌か?」

「そ、そうは言ってないでしょ」


 唇を尖らせながら、顔を逸らす。

 けど——


「——夏希」


 やさしく名前を呼ばれた。それだけで、澪が何を望んでいるのかわかった。


「っ……」


 視線を上げると、見慣れている、けれどいつもより凛々しい顔が、すぐ目の前にあった。


(やば……近いっ……)


 視線が絡まって、もう逃げられないと思った瞬間、そっと頬に手を添えられた。


(来る……っ)


 頭が真っ白になりながらも、私はそっとまぶたを閉じる。

 怖さも、不安も、不快感も一切なかった。

 ただ——照れと、喜びと、期待で、頭の中がパンパンに膨らんでいく。


 そして——

 ふわりと、彼の匂いが鼻先をかすめて、唇にやさしい感触が触れた。

 一度だけでなく、二度、三度。


「ん、ん……」


 あぁ、幸せ——。


(頭、とろけそう……)


 断続的に供給される甘い味を噛みしめていると、ふいに、後頭部に手が添えられた。


(えっ、なに⁉︎)


 びっくりして目を見開くと、それまでよりも少しだけ乱暴に、唇が押し当てられた。

 澪は、すぐには離れなかった。


「ん……!」


 思わず喉を鳴らしてしまう。


(こ、こんなの……っ!)


 顔が離れるや否や、私は手の甲で口元を覆った。


「い、いきなり激しいわよ……!」


 それは、照れ隠しのための文句だったけど、


「ご、ごめん……嫌だったか?」


 澪が自信なさげにそんなことを言うものだから、強がることもできなくなった。


「……自信、持ったんじゃなかったの?」


 相変わらず、素直じゃない——。

 自分でも苦笑してしまったけど、澪はちゃんと理解してくれて、お礼とともに抱きしめてくれた。


(もう一回は、しないのね……って、なに考えてるのよ⁉︎)


 変な方向に飛んでいきそうになる思考を押し付けるように、私は澪の胸元に顔を埋めた。

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