第2話 私立『翠明(すいめい)学園』


校門をくぐり抜けると、そこは”自由”を謳う進学校の敷地だった。

私立『翠明(すいめい)学園』高等部。

偏差値は県内トップクラスでありながら、その校風は驚くほど緩いことで有名だ。創立者であり現校長の小林隆二が掲げる理念は、ただ一つ――『自主性の尊重』。


(…校則、ほぼ無し。服装、頭髪、自由。授業への出席義務も最低限。法律に触れなければ、基本的に何をしても咎められない、か)


冷は昇降口へと向かう人の流れに乗りながら、脳内で入学案内のデータを検索・表示する。昨日、『Game Nexus』の規約を読み込むついでに流し読みしただけだが、重要な情報は記憶されている。


(…となると、さっきのバイクはどうなんだ? ヘルメットは…装着していたな。ナンバープレートは未確認。だが、そもそも高校生がバイクで通学するのは、多くの学校で禁止されているはず。法律違反では?)


思考がわずかにノイズを拾う。あの赤髪ツインテールの少女――赤井温の行動は、この学園の自由さを差し引いても、やや常軌を逸しているように思えた。


(いや、待て。道交法上、原付免許は16歳から取得可能。排気量50cc未満なら、法的には問題ないはず。通学手段としての許可は…学校ごとの内規か? だが、この学校にはその手の内規自体が存在しない可能性が高い…)


寝不足の頭が、普段なら瞬時にアクセスできるはずのデータベースをゆっくりと手繰り寄せる。結論としては、グレーゾーンだが、おそらくセーフ。あの少女の行動は、翠明学園においては”自由”の範囲内ということになるのだろう。


(…合理的ではないな。事故のリスク、騒音問題、未熟な運転技術。なぜ規制しない? 自主性とは、無秩序と同義ではないはずだ)


冷がそんな思考に耽っている間に、昇降口を抜け、自分のクラスである「1年B組」の教室にたどり着いていた。ドアには『担任 佐藤友美』というプレートがかかっている。

時刻は、始業のチャイムが鳴る1分前。まさにギリギリだった。


「…失礼します」

感情の乗らない平坦な声で呟き、冷は教室のドアを開けた。


瞬間、数十の視線が突き刺さる。

無理もない。始業直前に、顔のあちこちに小さな擦り傷を作り、お世辞にも清潔とは言えない、よれたTシャツ姿の少年が現れたのだ。明らかに”浮いて”いる。

初登校の日だけに制服の生徒が多かった。


教室の前方、教卓の近くには、柔和な笑顔を浮かべた若い女性教師が立っていた。おそらく担任の佐藤友美だろう。彼女は冷の姿を見ると、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに心配そうな表情になった。


「あら、あなた…青野冷君、ね? 大丈夫? その顔の怪我…」

「…問題ありません。少し、転んだだけです」

冷は簡潔に答える。事実ではあるが、説明する気は毛頭ない。


「そう…ならいいけれど。席は…あそこね。後ろの方の窓際。無理しないで、何かあったらすぐに言うのよ」

佐藤先生は、それ以上は深く追求せず、優しく席を指し示した。冷は軽く会釈だけして、指定された席へと向かう。


その間も、クラスメイトたちの視線は冷に注がれていた。

好奇、侮蔑、無関心――様々な感情が入り混じった視線のシャワー。冷はそれらをすべてノイズとして処理し、一切気にする素振りも見せずに自分の席に着いた。


教室を見渡す。新しい机と椅子。窓の外にはグラウンドが見える。

クラスメイトたちの顔ぶれを、無感情にスキャンしていく。


(…前方、女子グループ。中心にいるのは…活発そうな二人組。明るい茶髪のショートカットと、黒髪ポニーテール。確か、階段のすれ違い時に赤井温と親しげに話していた…? 周囲に影響を与えやすい、いわゆる”陽キャ”タイプ)


冷の分析は続く。星野ひかりと中村舞だ。彼女たちは、冷を一瞥したものの、すぐに仲間内の楽しげな会話に戻っていった。


(…その隣、男子グループ。リーダー格は…自信ありげな表情の長身イケメンか。取り巻きが二人。見るからにスクールカースト上位。将来の生徒会候補、といったところか)


瀬川陸、桐島尚也、石井剛の三人組だ。彼らは冷を値踏みするような視線で一瞬見た後、つまらなそうに顔をそむけた。


(…後方、窓際…金髪。ピアス。目つきが悪い。服装もやや着崩している。テンプレートな不良、か。こちらを睨んでいる? 理由不明。警戒レベル…低。実害がなければ無視)


戸田直樹だ。彼は明らかに敵意のこもった視線を冷に向けていたが、冷はそれを脅威とは認識しなかった。彼の隣には、ややおどおどした様子の少年が座っている。小松拓也だ。彼は冷と目が合うと、慌てて視線を逸らした。


クラスの半数近くが、程度の差こそあれ、冷のことを「なんだ、あのダサい奴」「ヤバそう」「関わらないでおこう」といった雰囲気で見ているのを、冷は肌で感じていた。だが、彼の心は微動だにしない。


(…想定通り。俺にとって重要なのは、この環境で目的を達成することだけだ)


目的――それは、睡眠不足の解消と、午後の自習時間を使った『Game Nexus』の攻略考察。


始業のチャイムが鳴り、担任の佐藤先生が入学に関する諸注意や自己紹介を始めた。その声はBGMとなり、冷の意識は急速に内側へと沈んでいく。

最適な睡眠導入角度を計算し、机に突っ伏す。周囲の生徒が「おい、マジかよ」「初日から寝るって…」と囁き合っているのが聞こえた気がしたが、それもすぐに遠のいていった。


次に冷が意識を取り戻したのは、昼休みを告げるチャイムと、教室に漂い始めた美味しそうな匂いによってだった。

給食の時間だ。

冷はむくりと起き上がると、配膳された給食を黙々と口に運び始めた。メニューは、そば、魚の刺身(給食で刺身が出るあたり、この学校の予算は潤沢らしい)、そして梅干し。彼の好物ばかりで構成された、理想的な昼食だった。グルテンと甘いものを嫌う彼にとって、今日のメニューは大当たりと言える。


周囲の生徒たちは、午前中ずっと寝ていた冷が、何事もなかったかのように給食を食べている姿に、若干引き気味だったが、冷は全く気にしない。

黙々と食べ終え、食器を片付けると、再び自分の席に戻った。


午後の授業は、ロングホームルームと称した自習時間だった。

仮眠によって多少回復した頭で、冷は鞄からタブレット端末を取り出した。もちろん、授業態度としては褒められたものではないが、”自主性重視”の翠明学園では、教師も他の生徒も、彼が何をしているかをとやかく言うことはない。それがこの学校のルールだ。


冷は、周囲の世界を完全にシャットアウトし、没入していく。

画面には、『Game Nexus』のログデータとマップ情報、キャラクターのスキルツリーなどが表示されている。


(…『MOZE』として活動していたMOBAとは、ゲーム性が大きく異なる。VRによる直感的な操作と、三人称視点での戦術的な判断。アクション要素とストラテジー要素の融合。これは…面白い)


脳内で高速にシミュレーションが繰り返される。

最適な装備の組み合わせ、スキルコンボ、マップごとの有利なポジション、敵プレイヤーの行動予測…。

彼の指が、目に見えないほどの速さでタブレット上を滑る。時折、眉間に皺を寄せ、深く思考に沈む。

その姿は、まるで難解な数式に取り組む研究者のようだった。

クラスメイトたちが談笑したり、別の課題に取り組んだりしている喧騒も、彼の耳には届いていない。彼の世界には、ただゲームの情報だけが存在していた。


自習時間の終了を告げるチャイムが鳴った時、冷はようやく現実世界に意識を戻した。

いくつかの有望な戦術パターンを構築できたことに満足し、彼は素早くタブレットを鞄にしまうと、誰に挨拶することもなく、足早に教室を出た。


(…帰宅後、すぐにログインして試してみよう。特に、高低差を利用した奇襲戦術は有効なはずだ)

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