息子のトランペット

神楽堂

息子のトランペット

「ここで吹いたらうるさいけん、外に行かんね?」


 息子の翔太が私のためにトランペットを吹いてくれると言う。

 しかし、部屋の中では他の人達に迷惑がかかるので、私達は庭に出ることにした。

 森の中に開かれた庭の真ん中で、私は翔太と向かい合った。

 なんだか恥ずかしくなって空を見上げてみる。山鳩が青い空に向かって飛んでいった。


「それでは母さん。聞いてください」


 姿勢を正し、改まった口調で翔太はそう言った。

 翔太は私のために、朗々とトランペットを吹いてくれた。

 私の目から溢れてくる涙……

 息子の演奏を聴きながら、私はこれまでの子育ての思い出を振り返っていた。


* * * *


 翔太は私の一人息子。

 初めての出産で、右も左も分からぬままの育児であった。

 大袈裟な言い方をすれば、翔太は私と同じ人間とは思えなかった。

 なぜって、言葉は通じない。

 ただ、泣くばかり。

 おなかがすいたのか、眠いのか、おむつが濡れているのか、はたまた、具合が悪いのか。

 どうしたら泣き止むのだろう。

 放っておいた方がいいのだろうか?

 いやいや、病気だったら手遅れになるし。

 あれこれ手を尽くしても、なぜ泣いているのかよく分からないことの方が多かった。

 

 食べさせるのも大変だった。

 私も翔太も、同じ人間であるはず。

 にも関わらず、なぜだか食べてくれない。

 おなかがすいていないのか、はたまた、具合が悪くて食欲がないのか、これまたよく分からない。

 吐き出されたミルクが私の顔にかかる。

 私、何やってんだろう……なんともみじめな気持ちになった。


 夜になっても寝てくれない。

 翔太はいつだって二十四時間営業。

 私はいつ寝たらいいの?

 翔太は寝たい時に寝て、泣きたい時に泣いていた。

 私は寝たい時に寝ることはできず、泣きたい時に泣くこともできなかった。


 それでも、時折見せてくれる笑顔に癒やされながら、育児を続けてきた。

 翔太にご飯を食べさせながら私もご飯を食べることができるようになった。

 人間、だんだんと要領よくなってくるものだ。

 それでも、翔太は寝たい時にはいつも寝ていた。

 「あ~ん」

 スプーンを口に入れようとしたその瞬間でも、翔太は寝てしまうことがあった。


 あれだけ食べさせるのに苦労した翔太が、自分でご飯を食べるようになってくれたのはとても嬉しかった。

 けれども、別の問題が発生した。

 食事中に、何か気になることがあったらそっちに行ってしまうのだ。

 今が食事中だということを忘れてしまう。

 いつになったら食卓は片付くの?

 スプーンでどんどん口に運んで食事を終わらせていたあの頃の方が楽だったのかな。


* * * *


「あれ買って! これ買って!」

 要求は際限がない。

「ダメ!」

 何回言っただろうか。

 買うわけないのに、なぜに買ってとお願いしてくるのか。

 私と同じ人間であるはずなのに、なぜに学習しないのか。


 私は何か言うたび、翔太から、

「やだ!」

と、言われ続けていた。

 それでも、私は言い続けた。

 私が言った「ダメ!」の回数と、翔太が言った「やだ!」の回数、どちらが多かったか、いい勝負だったように思う。


 反抗期は本当に手がかかった。

 どこで覚えたのか、私の言うことの揚げ足取りばかりしてきて、本気で憎たらしいと思ったこともあった。

 翔太は成長していくにつれ、どんどん口達者になっていく。

「産んでって頼んだ覚え、なかけんね!」

なんて言われたこともあった。

 私が子供の頃は、いくら親子喧嘩をしてもそんなこと、言ったことはない。

 なので、息子からそんな言葉を聞いた時、怒ればいいのか悲しめばいいのか分からなかった。

「母さんだって、ああたごたあなたみたいなひねくれもんば産んだ覚え、なかけんね!」

 などと、売り言葉に買い言葉で返したこともあった。

 子供と本気で口喧嘩するなんて、あの頃は若かったな……


* * * *


 あれこれ欲しがって、こっちが折れて買ってあげても興味は長続きせず、あれだけ欲しい欲しいと言っていたおもちゃが、今はガラクタ同然に放置されているのを見ると、あのやり取りはなんだったのだろう、などと思ったこともしばしば。

 そんな翔太でも、唯一、長続きしたものがあった。


 トランペット


 翔太は小学生になり、友達が入ったのをきっかけに自分もやりたいと言って、スクールバンドに入った。

 どうせすぐ飽きると思っていたけれど、負けん気の強い翔太は、友達より上手に吹きたいと対抗心を燃やし、切磋琢磨して練習に励んだ。

 家では私の言うことなんてちっとも聞かないのに、定期演奏会を聞きに行くと、翔太はちゃんと指揮者の指示に従って、真剣な眼差しで演奏していた。

 家での顔と外での顔は違うものだとは言うけれど、なるほどそれはその通りであった。

 翔太は中学でも高校でも吹奏楽部に入り、トランペットを吹き続けた。

 翔太の部活は、野球部の応援に行くこともあった。

 私も球場に足を運んだ。

 翔太は家のことは手伝わないのに、仲間の楽器運びは進んで手伝っていた。

 大きな太鼓を仲間と一緒に運んでいる姿は、なんとも頼もしく見えた。


 試合が始まった。

 選手ごとに違うテーマ曲を、みんなで一生懸命演奏していた。

 ヒットを打てばファンファーレを演奏していた。

 炎天下、みんな汗だくになりながらも、そして、素人の私でも分かるくらいに楽器の音がヘロヘロになりながらも、最後までみんなで演奏していた。

 結局のところ、息子の高校は試合では負けたけれど、息子が仲間の活躍を応援するために最後まで演奏を続けていた姿に私は胸を打たれた。


* * * *


「俺、自衛隊に入るけんね。自衛隊でトランペットば吹くと」


「楽器ば吹くとなら、何も自衛隊でなくてもよかろうもん」


「音大に行けるとは思っとらんけん」


 正直、大学には行って欲しいと思っていた。けれども、本人は高卒で働くと言ってきかなかった。

 母子家庭である我が家の経済状況を心配してくれたのだろうか。

「大学に行きたくなったら、いつでも行ってよかけんね」

 翔太のためなら、私の生活費を削ってでも学費を出すつもりだった。


 翔太は、私の言うことにはいつも逆らってきた。

 結局のところ、翔太は大学には行かず、自衛隊の曹候補生試験を受けて合格。自衛隊に入隊した。


 配属先は、翔太の希望通り、音楽科となった。

 翔太の話では、周りは音大卒の隊員ばかりとのこと。

 そんな中、高卒で音楽科に入れたことは、翔太にとってかなりの自信になったようだ。


「今度、式典があるけん、見に来てはいよください


 私は社会人として働く翔太を見に行った。

 翔太は音楽隊の制服に身を包み、仲間と共に演奏していた。

 その演奏に合わせて、隊員たちが勇ましく行進をしていく。

 翔太たちの演奏が隊員たちの士気を上げ、式典を盛り上げている。

 自分勝手に生きているかと思っていたけれど、こうしてみんなのために活躍している我が子の姿を見て、私は目がうるんだ。


* * * *


 それから数年が過ぎ、私は体調を崩して入院した。

 医師から余命を宣告された。

 私のがんは進行しており、治療で延命はできるけれども、それも数年が限度とのことであった。

 私は、森の中に建てられたホスピスへと転院した。



 今日は、翔太が休みを取って私に会いに来てくれた。

 わざわざ、音楽隊の制服に着替えてまで。


 病室で演奏するわけにはいかないので、私達は庭に出ることにした。

 私の車椅子は翔太が押してくれた。


「それでは聞いてください。母さんの好きな曲です。アメージンググレース」


 翔太は颯爽とトランペットを構え、演奏を開始した。

 翔太の楽器から流れ出る高く澄んだ音が、病院を囲む森の中へと吸い込まれていった。

 他の患者さんたちに迷惑かな、とも思ったけれども、建物からはガラガラと窓を音が聞こえてきた。

 みんなが息子の演奏を聞いてくれている。


 演奏が終わった。

 私は拍手した。

 病棟からも拍手の音が鳴り響いてきた。


「母さん、自分をここまで育ててくれてありがとうございます」


 あぁ、翔太はこんなことが言えるようになったとは……


「母さんに栄誉礼を贈ります」


 翔太はそう言うと姿勢を正し、再びトランペットを吹き始めた。

 ファンファーレのような曲だった。

 どこかで聞いたような……

 そうだ、式典の時に聞いたメロディだ。

 演台に偉い人が立った時に演奏していた曲だ。


 そうか。

 これは翔太からの最高の感謝の気持ちなんだ。

 私も思わず、背筋が伸びる。


 栄誉礼の演奏は終わった。

 翔太はまっすぐ私を見つめている。


「母さんに、敬礼!」


 翔太はそう言うと、洗練された動作で私に敬礼した。

 私は不器用ながらも、翔太の真似をして答礼した。



< 了 >

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