うん、起きてるよ

浅野じゅんぺい

うん、起きてるよ

自分からは、もう送らない──そう決めたのは、いつからだっただろう。


はっきりとは覚えていない。ただ、あの日の感覚だけが、どうしても心に残る。

少し湿った風が肌をかすめ、真衣からの返信が一向に届かないその日、胸の奥がじんわりと冷えていくのを感じた。


何かが、音を立てて欠けていくような、そんな瞬間が、まるで昨日のことのように鮮明に思い出される。


あの日、俺は少しだけ勇気を出して、「会えない?」と打った。理由は特になかった。ただ、真衣の顔が見たかった。それだけだった。だが、画面に浮かんだ“既読”の二文字が、すべてだった。真衣は何も返さなかった。


少し間をおいて、何事もなかったかのように「今日、夕立ですごくびしょ濡れになった」とメッセージが届く。その時、俺は笑顔のスタンプを送った。それが精一杯だった。心の奥では、冷たい波が静かに、けれど確かに揺れていた。


その瞬間、気づいた。いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。

──もう、自分からは送らない。

どれだけ考えても、どんなに気になっても、どれほど寂しくても。


今も、俺は寝苦しさを感じながら布団の中でスマホを握りしめている。真衣の名前が通知に現れるのを、ただじっと待っている。送らない、それだけなのに、胸の奥が静かに、けれど確かに痛む。


23時30分。窓を少し開けているせいか、湿った夜風がカーテンを揺らしている。スマホの画面だけが、ぼんやりと顔を照らす。通知音が鳴るたび、反射的に手が動く。だが、そこにあるのは学校の連絡や、家族のグループライン、それだけだ。心の中の何かが、また、しぼんでいくような気がする。


──「元気?」って、それすら送れないのか。

でも、送ってしまえば、何かが崩れてしまう気がして、俺は今日も何も打てないままだ。


自分だけが想っている気がする。

俺の方が、好きすぎる気がする。


そんなふうに感じると、どうしても動けなくなる。言葉を出すことすら、できなくなる。


俺と真衣は、名前のついた関係ではない。ただ、どこかでつながっているような気がしていた。心地よい時もあれば、今日のように、ひどく心細くなる日もあった。


0時42分。もう何度目かわからないため息をつき、俺はスマホを伏せた。

虫の声が、遠くで微かに響いている。夏が、もうそこまで来ている。


眠れない夜は、今夜だけじゃないはずなのに、今夜はどうしてこんなに、孤独が深いのだろう。


──ポキポキ。


小さな音が部屋に響いた。沈黙の中で、まるで浮き上がるようなその音。

反射的にスマホを手に取る。バナーが一瞬現れて、すぐに消えた。


けれど、ちゃんと見えた。名前の最後の二文字。


──野中真衣。


画面を開くと、メッセージはたった一言。


「起きてる?」


息を吸い、止め、ゆっくりと吐き出す。返事を打つ指が、ほんの一瞬だけ止まった。


胸の奥で、何かがきゅっと締めつけられ、同時に、少しだけほどけていくような感覚がした。


──また今日も、俺は救われてしまった。

自分からは送らないって、あんなに決めたのに。


「うん、起きてるよ。」


そう打って送信ボタンを押す。けれど、すぐには画面を閉じられなかった。

“既読”の文字を、ただじっと見つめてしまう。


5秒、10秒──

思っていたよりも早く、既読がついた。その文字だけで、ほんの少しだけ心があたたかくなる。


でも、その後、返事が来るまでの時間がまた、静かに流れていく。


俺はスマホを胸にのせて、天井を見つめる。

窓の外で、風鈴の音が小さく鳴っている。真衣の「起きてる?」は、何かがあった夜の言葉。眠れず、不安に包まれて、心がふわふわと浮かんでいる、そんな夜。


やがて、再び震える。

見なくても、真衣だとわかった。


「なんか、眠れない。てか、変な夢見て起きた。」


その文字を見て、自然と口元がゆるんだ。

夢の話。そういえば、ずいぶん前にも、そんな話をしてくれたっけ。俺がまだ、自分から毎晩のようにメッセージを送っていた頃。


「どんな夢?」と返すと、少ししてから、長いメッセージが届いた。


「なんかさ、駅のホームで陽と一緒にいたのに、急に見失って。改札の向こうにいる気がして走ってったら、いつの間にか、全然知らない街にいてさ。そこに陽の後ろ姿があったんだけど、名前呼んでも、ずっと気づいてくれないの。目の前なのに。」


読んでいるうちに、胸がざわついた。

俺が“送らない”と決めたこの数週間、真衣の中でも何かが動いていたのだろうか。


「夢の中でもすれ違ってたんだね」


そう返すと、少しの間をおいて、新しいメッセージが届いた。


「……ほんとは、陽にLINEしようかずっと迷ってた。」


指が止まる。

時計はすでに2時を回っていた。眠気はとうに消えていた。


「でも、自分から送ってこないってわかってたし。そういうの、陽、頑固だからさ。」


それは、優しさか? 遠慮か? それとも──あきらめ?


俺は少しだけ考えてから、打った。


「ほんとはね、待ってた。」


送信してから、急に恥ずかしくなって、スマホを布団の下に滑り込ませた。


けれど、すぐに震える。また、小さな音。


「……ごめん。

陽に“待たせる”ようなこと、したくなかったのに。」


涙が出そうになった。

なぜだか分からない。ただ、ずっと閉じ込められていた胸の奥に、少しだけ空気が入ってきたような気がした。


「今日は話そ、ちょっとだけでも。」

真衣からの言葉。


俺は、まるで昔に戻ったような気持ちで、小さくうなずいた。


「うん、いいよ。」


その一言が、今夜はとてもあたたかくて、まだ夜なのに、窓の外に広がる空気は、もう夏の朝の匂いがしていた。




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