君の隣り

雨音亨

君の隣り

広いキャンパスの各所に設置されている白い石造りのベンチは、ひんやりと冷たい。

おまけに夏にはとてつもなく熱く、冬はお腹が痛くなりそうなほど冷たくなる。

春と秋のみ、その存在価値を見出せる彼らの利点は、丈夫さと掃除が楽という点を除いてほとんどないと思う。

あ。

もう一つある。

木のベンチって素晴らしい。と、感動できる事。

「あー、もう信じられない。悪夢だぁ」

食堂で昼食を終え、売店で買った飲み物を片手に、木の優しさをお尻に感じながら、スマホをチェックしている私の横で、身体を丸めて悲劇の苦痛に酔う声が聞こえてきた。

「まだ引きずってたんだ」

「んんん」

くぐもった声が返る。

彼女の名前は三枝木栞奈。大学に入ってから知り合って友人歴はもうすぐ2年になる。

浅いといえば浅く、でも毎日一緒にいる事を考えれば、深いと言えなくもない。友人以上親友未満の間柄。

そんな彼女には、半年前からご執心の相手がいる。

いや、いたと言った方が正しいかもしれない。

「引きずるなって方が無理だよ。この半年、ずっとあの人の事考えて過ごしてたんだよ」

「あー、うん。知ってる」

毎日聞かされてたし、お店にも連れて行かれたし。

「確かに美人だよね。店長さん」

「ちっがーう!」

勢いよく顔を上げて、栞奈が振り返った。

「店長さんも美人。それは認める!でもね、時々しか見かけないオーナーさんの方が何倍もヤバイって事がどうしてわからない!?」

栞奈のおでこがぶつかる寸前まで迫る。

短くまとめられた茶色の髪が揺れ、睫毛の長い淡い色の瞳にかかる。

整ってはいるけれど、派手さはない汎用な顔立ち。

しっかりしすぎた化粧が、健康的な彼女の魅力を半減させてしまっている気がしてならないけれど、言えばきっと怒るだろうし、周りが思う魅力と本人の求める魅力がイコールとも限らない。

「はぁ」

溜息と共に、再び顔を覆って失恋の痛みを思い出したように、また背中を丸めてしまった栞奈の背中を、スマホに目を戻しながら、軽くさすった。

「思い出すだけで胸が苦しくて死にそう」

「それだけ本気で好きだったって事でしょ。いい片思いが出来たって思いなよ」

「片思いって言うな」

弱々しい反論が返る。

本人曰く。

運命の相手。だったらしい。

半年前、ネットで評判のいい天然香料の香水を売る店の店舗が、実は近所にあると知った栞奈は、下見と称して一人で偵察に出かけて行った。

その次の日に、興奮冷めやらぬ栞奈に引きずられるように連れて行かれたのが最初。

接客をしてくれた店長さんはかなりの美人で、少しウェーブのかかった淡い茶髪をアップにまとめた、エレガントな雰囲気の人。

それでいて話しやすく、気さくな感じで店の雰囲気はかなり良かった。

一階が店舗で、二階以上は住居になっている小さなお店。

白を基調とした店内は、まるで宝石店のように透明な光沢を放つ香水たちに彩られていた。

魅惑的な色彩。

多種多様な香りたち。

色、形、配置。

洗練された店内は清潔感に溢れ、高級さを保ちながらも人を拒絶しない優しさを感じる事が出来た。

気になる事と言えば、連れて行かれる度に、店長さんのワンポイントが変わるところだろうか。

白のブラウスに黒のスカートだったり、パンツだったりする服装に必ず緑色のアクセントが付いている。

最初はスカーフ。次はピアス。ネイル。ブローチ。ネックレス。ネクタイ。

ブラウスが深緑の時もあった。

毎回違うので、もしかしらかなりの数をコレクションしているのかもしれない。

個人的に相当なグリーンマニアと見ている。

栞奈も一瞬、この美人店長にのぼせあがるところだったらしい。

でも、たまたま奥の倉庫から出て来たオーナーさんが、栞奈の心を攫ってしまった。

「あー、うん……やっぱり、勘違いかもしれないし、はっきり聞いてみる」

突然、栞奈が決意を固めて立ち上がった。

「いやいや、やめときなって」

さすがにスマホから視線を外して、栞奈を見た。

意思の強そうな横顔が、こちらの意見を拒否している。

「嫌ならいいよ。一人で行ってくるから」

この友人はきっと灰色が嫌いなんだろうなと、つくづく思う。

世間にははっきりさせない方が幸せな事も沢山ある。

なのに、彼女はいつも白か黒かを決めたがる。

可能性を潰してからしか、次の道を選べない。

諦めきれない。

負けると分かっていても戦わなくてはいけない、なんてセリフをアニメや映画で聞いた事はあるが、それはこんな時の事を指してはいない。絶対違う。

軽傷を重傷にする必要性がどこにある。

「駄目だよ」

背を向けて進もうとする栞奈の手を掴んだ。

「同じ指輪を付けてたんでしょ?それも左手の薬指に」

「ただのペアリングかもしれないじゃん!」

「一緒にあのお店の二階に住んでるって言ってなかった?」

「ただのルームシェアの可能性だってある」

「あの二人が一緒にいる時の距離感見て、どう思った?」

「それは……」

これまで誰かと少しでも付き合った事のある人間ならば、分かるはずだ。

あの距離感が、友人のものではない事。

寄せ合う信頼が、目を合わせるだけで伝わる感情が、二人の歴史を物語っている事。

「でも……もしかしたら」

「もしかしたらなんて、ないよ」

「どうして分かるの!?」

握っていた手が振り払われる。

「嫌なら来なくていいって言ってるでしょ!」

「栞奈はそれでいいかもしれないけど、それって聞かれる側の迷惑を考えた?」

一人歩き出す背中に問いかけた。

日本ではまだ同性との恋愛について寛容でない人間も多い。

二人の関係がもし婚姻に近いものだとしても、誤魔化されてしまう可能性もある。

そうなれば、栞奈のモヤモヤが消える事はない。

今、栞奈がしようとしている行動が誰の得にもならないのは確かだろう。

好きな人と結婚しました。

それだけの事が言いにくい国。それが今の日本。

客商売となれば尚更オープンには出来ない。

この世で一番大切な人がたまたま同性だっただけで、この国では区別が必要らしいから。

「なんで私に聞かれたら、オーナーさんたちが困るの?」

「この世界がそんな世界だから」

「意味わかんない」

「栞奈は許容範囲が広いからね」

「どういう意味?」

怒った瞳が、振り向いて見つめていた。

彼女はまだ知らない。いや、実感した事がないのかもしれない。

日本で、同性で付き合う事の肩身の狭さを。

知られる事のリスクを。リスクを背負わされる不自由な状況を。

「黙って見守るのが礼儀」

「それって、もう決定してるって事?」

「何が?」

「私の失恋」

「うん」

怒りを湛えていた瞳に涙が滲む。

たった半年。

それでも一生懸命だった彼女の想いが雫となって落ちる。

「でも……まだ……」

顔を覆う彼女を抱きしめる。

「もうチェックメイトだよ」

「まだ告白もしてないんだよ」

「しなくて良かったんだよ」

世の中には、相手に知られない方がいい事が沢山ある。

その方が平和で安心、安全。

「でも……」

「うん」

腕の中でぐずる彼女を抱きしめたまま、優しく背中をさする。

春の風はまだ少し冷たくて、薄い上着の中を風が吹き抜ける度に背中が寒い。

腕の中で小さく震える栞奈だけが、熱いくらいに温かい。

「ぅっ……ぅぅ……」

微かな嗚咽を漏らして泣く彼女を抱きしめながら、自分の心が彼女の哀しみに同調して、悲しんでいるのが分かる。彼女が悲しんでいる事が、こんなにも哀しい。

これから先、いったい何度、彼女をこんな風に慰める事になるのだろう。

後何回、こんな彼女を見る事になるのだろう。

「もし誰かと暮らしたいなら、10年後、私とルームシェアすればいいじゃん。他に相手が誰もいなかったら、だけど」

儚い願いと知りながら、口にしてみる。

気づかれないように、そっと。

「一緒に……いてくれる、の?10年後、も?」

涙で途切れる声。

「うん」

世の中さん。世界さん。

お母さん。お父さん。

あなたたちは。

そこに愛情がないなら、一緒に住んでも文句はないのでしょう?

誰を愛しているかなんて、あなたたちに知られなければいいのでしょう?

一方通行の愛ならば、それが友情ならば、問題ないのでしょう?

なら、私は私の感情に名前を付けることはしない。

私がこの想いの正体を、明確にする事はない。

「あり、が、と」

ますます泣き始めた栞奈を、一度だけ強く抱きしめた。

きっと、一生届かない想いを込めて。

「さ、いつまでも泣いてないで、今日はもうどっか遊びに行こ」

「え?授業は?」

「単位危ない?」

「そんな事ないけど……」

「じゃ、いこ」

「あ、待って!お化粧直したい」

「うん」

涙に濡れた瞳で栞奈が見つめる。

「ありがとね」

「いいよ」

二人並んで歩き出す。

「あー……なんかしばらく恋愛はいいや」

「学生の本分は学業だしね」

「えーそれはつまんない」

「親の金でここ通っててよく言えるね」

「いやー、それはそうなんだけど」

いつの調子を取り戻しつつある彼女の隣りを歩きながら、空を見上げた。

傾き始めた太陽が、それでも温かな日差しを投げかけている。

冷たい風には勝てないくらい、弱々しいものではあるけれど。

「あ!さっきの10年後の約束、忘れないでよね!」

「忘れるのは私じゃなくて栞奈でしょ?」

抗議する声に耳を傾けながら、妄想する。

10年後。

まだ君の隣りに私はいるだろうか。

その時、どんな名称で呼ばれる関係になっているだろう。

今と同じか、もしかして別の何かか。

それでも。

君の隣りにいるのなら、私は笑ってる。

きっと。そう、君が傍にいてくれたなら。

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