06 依頼
「……といっても、あと韓国までは残り一時間ほどだ。ゆっくりしすぎるわけにもいかないから、早速本題に入ろう」
そう言って、法橋司は立ち上がり、ソファ横の木製デスクから一冊の黒いファイルを取り上げた。革張りの表紙には何の印字もなく、ただその存在感だけが異様な圧を持っていた。
千利は無言のまま、彼の手元に注目した。法橋はファイルを開きながら、しかし中身を渡そうとはせず、視線を千利の目へと戻した。
「……何故、桜井君が君たちを裏切ったのか、心当たりはあるかね?」
問いかけは穏やかだったが、明らかにその答え方一つで命運が分かれる、そう思わせるほどの空気が部屋に流れた。千利はその問いを一瞬受け止めたが、すぐに首を横に振り、
「ありません」
とだけ答えた。法橋は軽くうなずいた。まるで予定調和の答えだったかのように。
「それでは、もうひとつ質問しよう」
彼は少し身を乗り出した。
「君が、裏切ろうとしてチームにいたとして……さっきのような状況で、それを実行するかね?」
千利にとって、その質問は考えるまでもなかった。
「しません」
千利は即答した。その返答に、法橋は満足そうに目を細めた。
「そうだね。私も同感だよ。私や君のような、自分のことが大事で、必ず生き残りたいと思っている人間は——まず、あの場では裏切らない。生き残るためには時と場を選ばなければならないからだ」
法橋はわずかに笑みを浮かべて続けた。
「大切なものが、自分や身内、そうやってはっきりとわかっている人間は、信頼できる」
その言葉に、千利の胸に小さな衝撃が走った。
妹の存在——それを、法橋が知っていると直感した。彼が今、自分を信頼できると言ったのは、それを把握しているからだと思った。
千利が無言で視線を鋭くしたその瞬間、法橋は再びファイルに目を落とし、そこから三枚の紙を引き抜いて千利に差し出した。
「そんな君を信頼して、トップシークレットの依頼をお願いしよう」
渡された三枚の用紙。それぞれに、一人ずつの顔写真、経歴、担当した任務、そして最後に『裏切りの瞬間』の記録が簡潔にまとめられていた。
一人目の男は、暗殺チーム所属。任務途中でチームメンバーを全員殺害し、現在消息不明。
二人目は、情報分析官。極秘データを抜き取った後、国外へ。
三人目は……工作員で、かつて千利と短期間行動を共にした人物だった。
「最近、桜井君のように、我が『組織』を裏切る事件が、連続的に起こっていてね……組織の内部が腐り始めている。原因を突き止めなければ、我々の生存はない。」
法橋の声が、低く、部屋の空気を震わせた。法橋はそのうちの一人を指差して、
「この三人のうち、一人、この男を韓国で捕らえた。だが、我々『組織』の尋問人にもわからない、なかなかに不思議なことが起きているようで……そこで、洗脳までできる、君の人間観察眼で、この不思議を解明してほしい。」
といった。
「やってくれるか?」
その問いに、千利はファイルを閉じるように重ねた。千利には不思議なこととはどういうことか、そして、それを自分の能力で解明できるか、まだわからなかった。だが、千利の中で答えは決まっていた。
「報酬と、妹の安全が保証されるなら」
法橋は満足そうに笑った。
「もちろん。それが交渉の第一条件であることは……最初から分かっているさ、須藤君」
扉の向こうでは、船が着岸する準備のアナウンスが流れていた。
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