雨音

冬部 圭

第1話 春雨

 昼休み、教室で昼寝をしていた。窓に雨が当たる音を感じて目が覚める。今日は傘を持ってこなかったな、でも、入学してすぐに学校に置き傘をしたから大丈夫なんて考えながら、教室の窓からグランドを見る。どうして気が付いたのだろうと思うほど弱い雨が降っている。

「私が気になる?」

 幼馴染の佐々木雨が僕に声を掛けてくる。雨とは小、中と同じ学校に通った。中学校の三年間は同じクラスにならなかったけれど、今年は久しぶりに同じクラスになった。

 雨は名前が同じだからという理由で、普段から雨の日には

「私は雨の精」

 と言って笑っている。そんな時の雨の笑顔がとても素敵だから、雨が降ると心が乱れる。

 色々な雨があるように、雨の表情はころころ変わる。僕は雨に振り回されているばかりだ。でも、前にそんなことを言った時は、

「振り回しているわけじゃない。私は大地を潤しているの」

 と答えが返ってきた。潤しているのだろうかとも思ったけれど、口には出さなかった。逆らうつもりは無いし、そんな会話を僕は楽しんでいる気がする。

 放課後、帰宅部の僕が昇降口で置き傘を探していると、

「これでしょ」

 と雨が僕の傘を持っている。

「傘、忘れてきたから貸してくれないかな?」

 と雨は言う。

「僕も傘を忘れてきたんだ。その傘は置き傘。僕もそれがないと困る」

 そっと手を出して傘を受け取ろうとしたけれど、雨は僕の差し出した手を無視した。

「じゃあ、相合傘だね」

 そう言って雨は微笑む。心臓に悪い笑顔だ。

「部活じゃないの?」

 動揺を隠して雨に尋ねる。雨は高校でも美術部に入ったと言っていた記憶がある。

「普段は自由参加だから大丈夫。今日はお休みするって伝えてくるから待ってて」

 雨は慌ただしく走りだす。多分美術室に行くのだろう。廊下を走ると叱られるよと思ったけれど、声を掛ける間もなく姿が見えなくなった。一人手持無沙汰で昇降口に取り残される。

 何もすることはないので外の雨を見ている。しとしとと優しい雨が降っている。優しい雨か。雨に打たれると冷たいのに優しいって何だろう。

 水がないと草木も生き物たちも生きていけない。雨が降らないと。雨がいないと。

「大地、ぼーっとしてるよ」

 近づいてきた雨に気付かないくらいぼーっとしていたみたいだ。

「何か考え事?」

 無邪気に雨は尋ねてくる。

「そうだね。何を考えてたんだろう」

 とぼけながら、靴を履く。

「変なの」

 傘を開きながら外に出る。パラパラと優しい音がする。雨が濡れないように少し傘を雨の方に寄せて歩き始める。雨のペースに合わせて少しゆっくりと。

「今日の雨は優しいなって考えてた」

 歩きながらそんなことを告げる。一回とぼけた分、正直に言うのは恥ずかしいけれど、まあ雨が相手だし、隠すほどの事でもないかと思ったから。

「私はいつでも優しいよ」

 本気で言っているのか測りかねる答えが返ってくる。これは対応を間違えると機嫌を損ねる奴だ。正解を探したら探したで即答できないんだと責められる未来が見える。

「そうだね。でも今日は特に。傘に当たる音も心地いいでしょ」

 二人で耳を澄ます。何か、僕ら二人だけの世界が出来そうな。そんな不思議な感覚になる。僕だけかもしれないけれど。

「本当だ。静かで優しい音」

 穏やかで優しい声で雨が呟く。また、二人沈黙。でも気まずくはない。

 雨の歩く速さが更にゆっくりになる。雨に歩調を合わせる。

「この一瞬が」

 雨が口を開く。邪魔をしない様に僕は続きを待つ。

 だけど、雨はそこまで言って続きを言わない。それもいいかもしれない。

「学校は慣れた?」

 しばらく黙った後、雨は全く別の話題を振ってくる。

「よく分からないけれど、不自由はしてないよ」

 雨と同じクラスになれたし、充実してるよなんてからかったらどんな顔をするだろうと考えて少し笑みがこぼれる。

「何か失礼なこと考えてるでしょ」

 そんな僅かな笑みを雨に見咎められる。弁解しようかとも思ったけれど、今日の気持ちに素直になって、

「雨と同じクラスになれて良かったって考えてた」

 と答える。

「変なの。同じクラスじゃなくてもいつでも会えるでしょ」

 雨は無邪気に笑う。今はそうかもしれないけれど、いずれ僕たちの道は分かたれると思う。そうしたら会いたくても会えなくなる。会いたくても、か。今は会いたいとか考えなくても自然に顔を合わせることができるけれど、高校を出たら多分もう指折り数えるほどしか会うことはないだろう。

 中学の時、別々のクラスでそんなに顔を合わせることが無くても気にならなかったのに、先のことを考えるとあまり一緒にいられる時間は無いのかもしれないと気づいて少し焦る気持ちが芽生える。

 今、あまりに自然に雨が隣にいるから気が付かなかったけれど、僕たちが一緒にいることって、実は奇跡なんだろうと。

 まあ、それは他のクラスメイト達に対しても言えるかもしれない。世の中にはこれだけ多くの人がいて。気の合う人も気の合わない人もいて。他愛のない話をしたり、深刻な話をしたりして。そうして自分が独りぼっちじゃないことを確かめている。

「私にとって、大地がいるのは必然です」

 僕の思考を読んだのか、雨はそう宣言する。

「それは光栄だね」

 雨の言葉とかみ合っていない気はするけれど、うまい言葉が見つからない。

「今日も傘に入れてくれたし」

 それだけで僕のことを必要としてくれるのであれば、何度でも傘に入れてあげるよと思う。ばかげたことを考えている自覚はある。

「別に大したことをしているわけじゃないよ。偶にはこういうのもいいかな」

 照れ隠しにそんな風に答える。

「また、傘に入れてくれる?」

 頼ってくれて嬉しい半面、そんな機会はめったにないだろうと思う。僕は学校に置き傘しているから、傘を貸せば相合傘にはならない。でも、そんな指摘をしても何も幸せにはならないような気がする。

「いいよ。また、機会があったらね」

 多分そんな機会はほとんどないと思っているから少し残念に思いながら、それでもわずかな期待を込めてそう答える。

「決めた。私、高校の間は傘を持ち歩かない。雨が降ったら、大地が傘に入れて」

 本当にいつも雨は僕の心を乱してくる。

「朝から降っていたらどうするのさ」

 なんとなく雨の答えは予測できるけれど、一応聞いてみる。

「朝も。迎えに来てくれるんでしょ」

 当然でしょという口調で答えが返ってくる。

「今日みたいに傘を忘れたらどうするの」

 こんなやり取りを僕は楽しんでいる。予想する答えが返ってきたり、予想外のびっくりするような答えが返ってきたり。

「そんな時は二人で濡れながら帰るの」

 決まってるじゃないという雰囲気で雨が宣言する。濡れながら帰る。それもいいかもしれない。

「わかったよ。雨の日は朝も迎えに行く」

 冷やかされても知らないよと思ったけれど、狼狽えるのは僕の方かもしれない。そんなことを考えていると雨の家に着く。

「雨の日を楽しみにしてる」

 別れ際に雨はそんなことを言った。なので、僕も次の雨が待ち遠しいなと思った。

 次の雨はどんな雨だろうかと。

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