第6話 復讐の女神
その日、空が割れた。
正確には、あまりの巨大質量による衝突によって、
都市全体を覆っていた恒星光フィルターが音を立てて砕け散ったのだった。
厚く重たい雲膜の向こうから、
尋常ならざる何かが、ゆっくりと、確実に現れた。
重低音の轟きは、大地を震わせ、空気を裂いた。
それはまるで、世界の終焉を告げる、天使のラッパのようだった。
後にそれは「太陽炉エンジン」――
泰造が秘匿してきた禁断の技術によるものと判明するが、
その時、その場にいた誰も、それを知る由もなかった。
現れたのは、一つの巨大な影。
ただ、人々は空を見上げた。
声もなく、絶望もなく、ただ、呆然と。
自らの運命を理解するより早く、本能だけが警鐘を鳴らしていた。
血縁に仇なす者への復讐を司る女神の名を持つ、
空を割って降り立った鋼鉄の神話。
要塞は、何の躊躇もなく、静かに、しかし荘厳に、
東京の空にその威容を晒した。
無数のエンジンが蒸気を吐き、光を振りまき、
禍々しくも美しい姿で、都市を覆い尽くした。
それは警告だった。
赦しではない。
救済ではない。
世界に対する、
たった一人の男の、復讐の意志そのものだった。
そして誰も気づいていなかった。
この時点で、既に”東京”という都市は──滅びる運命を迎えていたことを。
国家も何もせずボーッと首都が焼かれるのを眺めているわけではない
国家権力が派遣した迎撃部隊──
無人ドローン軍、対要塞砲、ステルス爆撃機部隊──
あらゆる”正義の名のもと”の兵器が投入された。
けれど。
エリューニスは、そのすべてを見下ろしていた。
圧倒的な火力差。
絶対的な防御。
機体全体を包む青白いプラズマフィールドが、ミサイルを次々と弾き、
母艦サイズのドローンさえ、徹甲レーザーで正確に撃ち抜いた。
太陽と同じ原理でエネルギーを生成し続けるエリューニスのプラズマフィールドを突破するには世界が殆ど焼かれた先の大戦の核兵器を使っても不可能であると後の研究で判明している
敵が数を揃えるなら、
エリューニスは”都市ごと”爆破した。
地上部隊の陣地をサーモバリック弾頭で消し飛ばし、
上空の爆撃編隊には、雲を割るようなレーザーを浴びせた。
空を裂く雷鳴、
炎に溶ける夜空、
鉄と硝煙の臭い。
それでも、要塞は微動だにしなかった。
まるで、世界そのものを裁く執行官だった。
それは見事だった。
無慈悲で、冷酷で、そして──どこか神々しかった。
エリーニュスが空を覆ったその瞬間、
東京は静かに、確実に、“死に始めた”。
まず最初に、都市インフラが沈黙した。
信号は赤のまま凍り付き、電波塔は焼き切れ、
AI交通制御は錯乱して、タクシーも高級車も区別なく交差点でぶつかり合った。
「通信障害?いや、違う」
「都市そのものが、“支配された”んだ」
数時間後、必死に動こうとした政府高官たちは気づいた。
もう何もかもが遅かったと。
高層ビルのガラスが、爆風もないのに軋み、割れ、
ガラスの雨が降り注いだ。
巨大な広告ホログラムが次々に落下し、
“未来都市”を謳ったビジュアルが、皮肉にも人々を押し潰した。
上級国民も例外ではなかった。
皇居跡地に作られた超高層タワー、通称「新帝国ビル」のペントハウスで
優雅にシャンパンを飲んでいた大企業の重役たちも、
何が起きたか理解する暇すらなく地面に叩きつけられた。
街には、異様な音が鳴り響いていた。
爆発でも銃声でもない、もっと原始的な音──
「悲鳴」と「笑い声」だった。
逃げ惑う群衆の中で、
一部の者たちは興奮していた。
自撮り棒を振り回し、燃える街を背景に「バズ動画」を撮ろうとするインフルエンサー。
「正義の鉄槌だ!」と叫びながらATMを破壊する無政府主義者たち。
普段は地味なスーツを着ていたオフィスワーカーが、
倒れた警官から奪った銃を握りしめ、
“英雄ごっこ”に興じる姿もあった。
SNSはすぐに地獄絵図を拡散した。
《#東京終焉》
《#バカな国民に天罰を》
──その一方で、
地下鉄のホームに取り残された幼児が、誰にも助けられず、
泣きながら母親の名を呼び続ける動画が、数千万回再生されてもいた。
希望も絶望も、笑いも悲鳴も、
すべてが均等に、無慈悲に、混ざり合っていた。
《エリーニュス》は、そんな狂騒を、冷たく、見下ろしていた。
何百もの砲門を備えながら、あくまで沈黙を守った。
まるでこの惨劇そのものが、彼らの復讐の「導火線」でしかないと告げるかのように。
そして、都市上空に映し出されたのは──
たった一つの声明だった。
【これは宣戦布告である】
【民衆の悪意に復讐するために、我々はこの都市を接収する】
【止めたければ、正義を証明してみせろ】
署名は──”Albert & Taizo”。
東京は、“個人”によって征服された。
政府は、国連は、軍も警察も、もはや何一つできなかった。
彼らは、ただ世界の終わりを見上げるだけの、群衆に成り下がった。
国家は、判断を下した。
“市民を守る”という建前をかなぐり捨て、
“脅威を排除する”という本能だけを選び取った。
まず行われたのは、《制御不能エリア》の指定だった。
テレビもネットも、当初は”テロリスト鎮圧作戦”として報じたが、
中継カメラが一台、二台と沈黙し、
誰もが察した。
「見捨てられた」と。
地下には食料が足りず、上空からのドローン配送も遮断され、
水は濁り、薬も尽き、
“生き残った者同士”が互いを奪い合う地獄が始まった。
それでもエリーニュスは、静かに空を支配し続けた。
迎撃ミサイルも、ゲリラ襲撃も、笑うように片手で払いのけながら。
──だが、政府には切り札があった。
旧世代の通信施設に密かに設置していたEMP誘導網、
名目上は「対サイバー災害用防衛策」だったが、
実態は都市そのものを、一発で沈めるための棺桶の蓋だった。
スイッチが押された瞬間、
都市全域で”沈黙”が走った。
電気が落ちた。
ネットが落ちた。
人工太陽も、セキュリティシステムも、呼吸器も、ライフラインも──
すべて一斉に、音もなく死んだ。
通電していたビル群は連鎖的に爆発し、
停止した電車内では圧死者が続出。
重力制御が切れた空飛ぶ車は、雨粒のように落下した。
地上も、空も、地獄だった。
──そして、空に浮かんでいた《エリーニュス》も、
ゆっくりと、音を立てずに崩れ始めた。
巨大な鉄塊は、
逃げ惑う者たち、かつて彼が救ったEU移民たち──
その上に無慈悲に落下した。
アルバートが守ろうとした者たちを、最後に自らの手で押し潰してしまった。
誰も、その皮肉を口にしなかった。
要塞内部。
全システムが停止し、冷たい光だけが漂い。泰造やその他乗組員たちがニュートンの法則によって地球に引き寄せられるのを必死に回避しようとする中
アルバートは一枚の写真を手にしていた。
娘の笑顔。
妻の柔らかな微笑み。
かつて彼が救った、名もなき子供たちの無邪気な笑顔。
その目に、涙はなかった。
怒りもなかった。
ただ、静かに──問いかけていた。
「……俺は、どこで間違えちまったんだ?
教えてくれよ……」
それが、彼の最後の言葉だった。
要塞は、音もなく都市の中心に墜落し、
かつてのスラム街も、再開発地区も、すべてを呑み込んだ。
⸻
後日。
政府は記者会見で、満面の笑みを浮かべながら発表した。
「都市機能の完全復旧に成功しました」
「復興支援金も国民の皆様からのご協力で──」
SNSはすぐに祭りになった。
《#ざまあ》
《#独善テロリスト死亡》
《#都市征服ごっこ失敗》
軽薄な祝福と、無神経な侮辱と、
無関心の海に、アルバートの名は沈んだ。
数週間後、
この暴動の”共犯者”として逮捕されたマーフィーは、
異例の速さで死刑を宣告された。
国家は、彼らに一片の敬意も示さなかった。
死刑台。
白く塗られた処刑室。
無表情な看守たち。
足元の落とし戸がカチリと音を立てる直前、
マーフィーは、
ぽつりと呟いた。
「……誰もが奴を笑っていた。
でも奴は、たった一人で都市を落とした
それが間違いだったとしても、見事だったさ」
その言葉が空気に溶けた瞬間、
床が──無慈悲に開いた。
マーフィーの姿は、あっけなく闇に呑まれた。
誰も、それを聞いていなかった。
誰も、それを記録していなかった。
ただ、彼だけが──最後まで、アルバートを信じていた。
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