第3話 楽園

男は静かに目を伏せ、椅子の背にもたれかかった。

尋問官は黙って、男の言葉を待った。

室内の空調が無機質に唸る音だけが、ふたりの間に流れている。


──あいつは、すべてを手に入れた。


美しく聡明な嫁。

無垢な笑顔を浮かべる娘。

戦災を免れた、今ではもう数台しか存在しないフェラーリ。

巨額の資産で建てた、メガロポリス郊外にそびえる白亜の豪邸。


何もかも、だ。


その上あいつは自分一人だけ幸せになったりしなかった


彼は、カブキシティー──この巨大都市唯一のスラム街に、

自らの資金で医療施設を建設し、

子供たちのために学校を設立し、

劣悪な環境の住宅群を刷新していった。


そのすべてを、自律型の支援システム、

「アルバート・プロトコル」によって運営した。


中央管理ではなく、現場の声を拾い上げ、

住人たち自身が問題を解決できる仕組みを作ったのだ。


誰もが彼に感謝した。

助けられた子供たちは、彼を「先生」と呼び、

職を得た労働者たちは、彼を「兄貴」と慕った。


メディアはこぞって彼を称賛した。

「新時代の救世主」

「奇跡をもたらす男」

「解放者」


テレビでも、ホロニュースでも、

彼の名を知らぬ者はいなかった。


貧民たちは彼に救いを見出し、

エリートたちすら、彼の手腕に舌を巻いた。


アルバート・ディバイド──その名は、もはや誰もが知っていた。


彼の家には、毎日、人が訪れた。

ありとあらゆる階層、立場の違う人々が、

まるで引き寄せられるように、門をくぐった。


夕方には、仕事帰りのサラリーマンたちが、スーツを脱ぎ捨てるように庭に集い、

昼間には、子連れの主婦たちが、ベビーカーを押してやってきた。

夜には、スラム育ちのギャングたちが、ギターをかき鳴らしながら踊った。

そして時には、企業役員クラスの富豪までもが、

アルバートの芝生に腰を下ろし、

肩の力を抜いた笑顔を見せた。


「信じられるか? あそこじゃあ、尋問官と脱獄囚が、肩組んで歌ってたんだ」


男は小さく笑った。

自嘲とも、懐かしさともつかない、微妙な響きだった。


アルバートの庭は、いつも光に満ちていた。

夜になると、ホログラムの灯りがふわりと宙に浮かび、

人工蛍が飛び交うようにして空を舞った。


子供たちは裸足で芝生を走り回り、

若者たちは即席のバンドを組み、

老いた者たちは、ただ静かにワインを傾けた。


そこには、争いも、差別も、憎しみもなかった。


エリートが、底辺に敬意を払い、

難民たちすら、秩序を守った。

誰もが、ただ「アルバートの客」として、平等だった。


──この世に天国があるとすれば、

間違いなく、そこだった。


重厚な鉄の門は、24時間開け放たれていた。

セキュリティは形だけだった。

なぜなら──

「どんな時間でも、誰かが起きて、見守っている」

そんな信頼と連帯が、そこにはあったからだ。


芝生に転がった若者がギターを弾き、

子供たちの笑い声が夜空に溶け、

誰かが即興で焚き火を起こし、

みんなが集まって歌った。


門の外には、都市の喧騒が確かにあった。

だが、ここだけは違った。

ここだけは、戦争も貧困も、争いも、忘れさせてくれた。


アルバート・ディバイド。

彼の存在そのものが、人々を繋いでいた。


男は、静かに目を閉じた。

尋問官が息を呑む気配が伝わってくる。


「──だが」


男の声が、かすかに震えた。


「そんな場所だからこそ……あんな悲劇が起きたんだ」


室内の光が、冷たく男の横顔を照らしていた。

白く無機質な壁の向こうに、

彼の脳裏に焼き付いた、あの日の光景が広がっていた。

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