エラー(惑乱)
かめのこたろう
第1話
週末の喧騒が渦巻く店内。
豪華で瀟洒な、しかしどこか張りぼてめいた虚飾感に満たされたそこ。
私が人生のもうそれなりの時間と労力を費やしてしまった主戦場。
夜の街で遊ぶ余裕をもった男を着飾った女が迎えて酔談の相手をするだけの、ごくごくシンプルな目的に特化された場所。
一応遮蔽されて隔離されてるはずの控え室まで届いてくる残響のような熱と雰囲気を感じながら、すっかり慣れた手つきで煙草に火をつけた。
紫煙がゆっくりと立ち上るのを眺めながら、ぼんやりと意識を空間に遊ばせる。
これから否応なく心身を酷使するのはわかりきっている。
逃れようのない運命。
ゆえにこそささやかな、だけどとても貴重で大切な時間。
しっとりとやさしい雑音混じりの静寂。
そんな私にとってこの場所で唯一の救済をあっさりと打ち破ってくれたのは、一回り年の離れた同僚の不躾な声だった。
「この記事読みました?」。
少し品のない、しかし確実に若さに溢れる美貌に馴れ馴れしい笑みを浮かべて言う。
彼女は週刊誌の薄い紙を指先で弄びながら、まるで他人事のような、それでいて瞳の奥には隠しきれない興味の色を宿しているのは明らかだった。
某大物芸能人への性被害告発の件。
つい先日来、被害者とされる女性のインタビュー記事が週刊誌に乗せられてから界隈の話題もそればっかりになっていた。
だから私はいつものように肯定するでもなく、否定するでもなく軽く応じた。
この世界では、真偽不明の噂話など日常茶飯事だからいちいちまともに受け答えしていられない。
ただの世間話にしても、最もどうでもよく無益な類のものなんだから。
そんな私の無感動、無関心をものともしないくらい彼女の継続の意思は強いらしい。
心無しこちらに身を乗り出して声を潜めて言う言葉。
「これって、実はお金目当てに計算づくでハメられたって噂本当なんですかね?」。
想像以上に下世話な内容にうんざりするのを何とか表に出さないように努力する。
またこの手のやつか。
馬鹿馬鹿しい。
決して前向きなものではない心象に沿った煙草を挟む指の動き、眉の歪みをうまく誤魔化せたろうか。
でも追い打ちのように続くセリフも完全に想定内のもので、心の重みをさらに助長してくれる。
綿密にメールなどで決して乗り気ではない意思を匂わせるものを残しておくとか。
いざそういう雰囲気になったら、流されたように生で受け入れるとか。
後から、『あの時酔っていて、本当は嫌だったのに拒否できなかった』と訴えるとか。
この手の話がでるたびに同じような下種な勘繰りは繰り返されてきたもんだ。
もうとても若いとは言えない年齢を重ねてしまった自分にはさほど珍しくもない
だから脱力したように気のない返事を返すことしかできなかった。
もう自分の感情を隠す努力もする気になれない。
でも彼女は全く堪えた風もなく、意味深な笑みで言う。
「相手の社会的立場が高ければ高いほど有利で確実らしいです」。
「妊娠でもしてたらさらに成功率も慰謝料も跳ね上がるって」。
「リスクももちろんあるけど、相手さえ選べるならリターンは確実だとか」。
「こんなこと本当にあり得ると思います? 成功する確率なんて、ゼロですよね?」。
あくまで冗談めかした口調。
でもその瞳には純粋な好奇心以外に、ほんのわずかの何かピリッと張りつめたものが微量に混入しているように見えるのは気のせいだったのか。
もちろん当然のように一笑のもとに一蹴しようとしたのだけれど。
私はその時なぜか言葉に詰まった。
もしかしたら感じていたのかもしれない、彼女に見出したごく小さな、だけど決定的な違和感。
私という統御された系を狂わせる極小の異物的乱数。
認識を通じてこちらの内部に巧妙に潜り込んだそれが、本来とは乖離した反応をもたらしたのか。
侵食。
非現実的な陰謀論だと笑い飛ばそうとしたのに、自分の中にある酷く無機的で冷徹な計算高い制御不可能な自動機構が勝手に励起して機能しはじめていた。
普通ならばありえない。
常識的にはなりようがない。
だけど。
もし仮に。
妊娠することすら自己利益的に利用できる精神性をもてるのならば。
そこまで徹底的なリアリストになれるのならば。
もしかして。
これまで全く想定していなかった可能性を考え始めていた。
まともな女ならばそんな自分の身体と新たな命を究極的に冒涜するような鬼畜な発想を抱き実行できるわけはない。
ただ。
もし。
かりに。
人間として、いや生物として最低限の倫理意識さえ霞ませるかもしれない、金銭的メリットが提示された時に私たちは揺るがずにいられるのか。
「そんなことするはずがない」という固定観念をこそ利用しようとするエゴイズムを糾弾できるような社会システムなんて果たしてあるのだろうか。
ぞわり。
圧倒的な何かを幻視する。
絶対的境界を踏み越えさせるかもしれない強烈な力と誘惑。
おぞましくも蠱惑的な、巨大で無慈悲な見果てぬ深淵。
本当に事前に周到な証拠、例えば社会的立場の差に依存する強制力を感じさせるやり取りの記録を恣意的にのこせれば。
あるいは事後的に不合意と解釈できる余地をフラグメンツのようにちりばめさせておけば。
少なくとも刑事事件のように厳格な立証を求められない民事訴訟においては、賠償を勝ち取ることは想像するよりも容易なのではないか。
別に勝たなくても最低限、目標金額で示談できればそれでいいのだ。
それこそ、自分の人生をすべて、あるいは相当量賄いうるようなリターンを見越せるのならば。
やる価値が皆無とは、とても言えないのかもしれない。
……。
不意に途切れさせた言葉。
明らかに不自然な沈黙を、彼女はなぜか辛抱強く耐え待ち続けている。
その無言の対応に計り知れない虚無を垣間見たような気がして、やっと声をだした。
「理屈の上では、完全にあり得ないとは言い切れない」と。
「それでも相当な金額が見込めなければとてもわりに合わないだろう」とも。
本当は完全に否定するべきだったのに。
可能性を排除しきれずに、せいぜいが条件的に釣り合わないという消極的な抵抗を示すことだけ。
でもその時の私にはそう答えるのが精いっぱいだった。
何故か己に嘘を付くような後ろめたさがあったような気がしたから。
だって。
自分自身、その誘惑に抗えると本当に胸を張って断言できるのかと。
根底が揺らぐような、覚束ない不安に取り込まれそうになっていたのだ。
べたっと不快に張り付くような焦燥感。
言葉にできない居心地の悪さ。
相変わらず表向きは冗談めかして気楽な雰囲気を纏っている彼女の中にあるもの。
意図せず見出したそれに、意地悪く狡猾に逃げ道を塞がれて追い詰められてしまったみたいに。
「ですよねー」。
彼女の持つ顧客の一人、地元で有名な資産家の名前がその返事の声音と重なった。
何故かはわからない。
理屈ではない。
ただ、「相当な金額が見込めなければ」という自分の言葉が致命的な間違いを犯したような落ち着かない不安と共に脳裏を巡り続けた。
彼女が店をやめたとママから聞いたのは、それから数日後のことだった。
了
エラー(惑乱) かめのこたろう @kamenokotaro
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