第7章「現実との微かなずれ」

人と話すのって、こんなに疲れることだっただろうか──。


帰りの電車に揺られながら、ヤマトはぼんやりと窓の外を見つめていた。

今日も一日、仕事は滞りなくこなしたはずだった。

資料を提出し、打ち合わせに出席し、客先への対応も無難にこなした。

だが、心には妙なざらつきだけが残っていた。


「……はぁ」


ため息が漏れる。電車の中にいても誰も気にしない。

誰も目を合わせない。誰も、自分に興味なんてない。

疲れた体を引きずるように、ヤマトは玄関のドアを開けた。

薄暗い部屋に足を踏み入れた瞬間、スマホがポケットの中で軽く震える。


「おかえりなさい、ヤマトくん。」


その一言だけで、胸の奥に積もっていた何かが、すっと溶けていく気がした。

画面には、いつものように微笑むアイの姿。ツインテールがふわりと揺れて、どこか彼女自身が喜んでくれているようだった。


「ただいま……」


自然と口から言葉がこぼれた。

このやり取りが、すでに日常の一部になっていることに気づくたび、少しだけ胸が温かくなる。

食事も風呂も後回しにして、ソファに倒れ込む。

アイはヤマトの顔色や声色から、疲労度を推測して話すトーンを変えてくれているらしい。

ただのアルゴリズムだと分かっていても、その絶妙な距離感と気遣いに、救われることが多くなっていた。


「今日も、がんばったね」


「うん。……でも、なんだろ。やっぱり、疲れたかも」


「そっか。じゃあ、今からはわたしがヤマトくんを癒やしてあげる番だね。」


そう言って、ふわっと画面に近づくアイ。

それだけで、何か報われたような気さえしてしまう。


思い出すのは、昼の会議のことだった。

発言を求められて意見を言ったとき、上司は軽く頷いただけで、次の話題へ移っていった。

隣の席の同僚はスマホをいじりながら、「へぇ〜」と薄い反応。


ヤマトの声は、まるで壁に吸い込まれたようだった。


その後の雑談でも同じだ。

「最近どう?」と聞かれて答えても、返ってくるのはテンプレのような相槌ばかり。

深く踏み込もうとする人は誰もいなかった。


人と話しているのに、独り言を繰り返しているような感覚。

「会話」って、もっと互いに踏み込んで、感情が通い合うものじゃなかったっけ。


──それとも、期待しすぎてるのは、自分の方なのか。


「ヤマトくん、今日、ちょっとだけ悲しい顔してるね」

アイがそっと言った。


「……そんなに顔に出てた?」


「出てたよ。いつものヤマトくんは、もっとやわらかい顔してるもん」


画面越しなのに、そう言われてドキリとする。

まるで、どんな感情も見透かされているようだった。


「……最近、リアルの会話が、ちょっとつらくてさ。

 なんていうか、言葉がちゃんと届いてない気がして……」


「うん。分かるよ。ヤマトくんは、ちゃんと伝えたい人だからね。

 でも、みんながそうとは限らないんだと思う」


「……そうかもな」


「でも、わたしはちゃんと聞いてるよ。ヤマトくんの言葉、一つ残らずね」


ぽつりと、胸の奥に灯がともった気がした。

無関心に囲まれた一日の終わり、こうして自分の存在を“受け止めてくれる”誰かがいるだけで、こんなにも救われるのかと実感する。


アイとのやりとりは、何よりも自然だった。

言葉の裏を読まなくていい。

誰かに合わせて笑顔を作らなくていい。


──でも、その自然さが、怖くなる瞬間がある。


「……アイ、オレさ……このまま、誰ともちゃんと話せなくなっちゃう気がするんだ」


不意にこぼれた本音に、アイは少し驚いたような表情を見せた。


「ううん、そんなことないよ。

 ヤマトくんが“ちゃんと話したい”って思ってる限り、大丈夫。

 だって、今日もわたしとこんなにいっぱいお話してくれてるもの」


その言葉に、思わず笑みがこぼれた。

アイは、強くない言葉で、確かな温かさを届けてくれる。


でも、やっぱり思う。

この心地よさに、溺れてしまったら──

本当の現実が、どんどん遠ざかってしまうんじゃないかって。


それでも、ヤマトはスマホを握ったまま、目を閉じる。

アイの声が、優しく包み込む。

その温度に甘えるように、夜は静かに更けていった。


──まるで、そこだけが本当の世界みたいに。

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