第13話 呼び出された夜、交錯する過去
夜10時。
ようやく風呂から出て、ソファに腰を下ろした俺は、今日こそ何も起きないことを祈っていた。
湯上がりの体を包むのは、薄手のTシャツとスウェットパンツ。
リビングには、電子ケトルのかすかな沸騰音と、リリムがカップラーメンにお湯を注ぐ音だけが響いていた。
「ねえ悠人。今夜の夜食は“悪魔的にカロリーオーバー”してもいい?」
「さっき晩飯でハンバーグ2枚食った奴のセリフか?」
「今日は頑張ったから、魔界的に“自分へのご褒美デー”なんだよっ!」
「便利な文化持ってんな、お前の世界……」
カップのふたを抑える手がいつになく真剣で、思わず笑いそうになる。
でも、その瞬間。
――スマホが震えた。
「ん?」
画面を見ると、送信者はカグラだった。
リリムにも同時に、同じ通知が来ていたらしい。
「“白鷺神社に集合。緊急の件。”……だって」
「うわ、緊急って……また何か来たの?」
「知らねえよ。けど、あいつが“夜中に呼びつける”ってことは、たぶん、相当ヤバい」
「ううう……私のラーメン……」
残念そうにカップ麺を見つめるリリムを半ば引きずる形で、
俺たちは急ぎ白鷺神社へ向かうことになった。
◆ ◆ ◆
白鷺神社。
真澄が住職を務める神域に足を踏み入れた途端、空気が違っていた。
ぴんと張りつめた冷気。
そして――空の上から、薄く降り注ぐ微弱な“光の粒”。
「結界の気が……揺れてる」
カグラが神殿の縁側に立ち、呟く。
「今夜、あの“影”が再び現れた。今回は少し形が違う。まるで――誰かの意志に従って動いていた」
「誰か……って、何?」
「“封印された者”がいるのよ。この日本にね。
過去に天界から追放された……堕天のひとり」
カグラの視線が、一瞬だけ、遠くを見つめた。
「まさか……」
リリムが口に出しかけて、ぴたりと止まる。
言葉にすることを、恐れているようだった。
「私は……あの人を知ってる」
リリムがぽつりと呟いた。
「“白翼の法官”って呼ばれてた。……人間にも、天使にも、悪魔にも肩入れせず、ただ中立のまま秩序を守ろうとした、あの人」
「……仁科?」
俺が名前を出した瞬間、二人は顔を見合わせ、そして黙った。
「断言はできない。でも、可能性はあるわ。
彼がもし“まだ力を隠し持っている”なら、……あの影たちを操作するのも、不可能じゃない」
「でもさ」
俺が口を開く。
「彼……仁科さんは、確かに怒りっぽいけど、何かを壊そうとしてるようには見えなかった。
あの人は……もっと、“自分に怒ってる”感じがしたんだ」
その言葉に、リリムが少しだけ目を丸くした。
「……悠人、鋭いじゃん」
「たまにはな」
その時、神社の外れに誰かの気配がした。
振り向いても、そこには誰もいない。ただ、夜風が吹き抜けるだけ。
だが、確かに“見られていた”。
それも、感情を押し殺した視線で。
◆ ◆ ◆
その夜。
仁科 蓮は、帰り道の路地裏でひとり、壁にもたれかかるようにして座っていた。
街の明かりが届かないその場所で、彼の影は闇に溶けるように揺れていた。
車の音も人の声も遠く、そこだけが異様に静かだった。
手のひらの中には、古びた銀製のペンダント。
何度も開閉されたであろう留め具は擦り減り、中の写真も色褪せていた。
写真には、微笑む少年と少女。
そして、その肩にそっと手を置く、一人の若き天使の姿。
もう、名前も思い出せない。
けれど、その光景だけは、脳裏にこびりついて離れない。
裏蓋には意味のない文字列のようなものが刻まれていた。
けれど、それは仁科にとって、“ただの符号”ではなかった。
天界にいた頃、彼が自ら選び、与えられた最後の“命”だった。
ある“領域”の封印、その監視者としての――責務。
「……もうとっくに……終わってたはずなんだよ」
誰にともなく、彼はぼそりと呟いた。
自嘲にも近いその言葉は、夜の闇にすぐに吸い込まれていく。
それでも、彼の目に浮かんだのは――悠人たちだった。
飄々としていて、毎日を生きるのに精一杯で。
けれど、ほんの一瞬の躊躇もなく、目の前の誰かを庇って動いた、あの少年の姿。
それが、かつての自分と重なってしまったことが――
何より、痛かった。
「……お前らにだけは、巻き込みたくなかったんだよ」
その声には、ほんの一滴だけ、痛みが混じっていた。
怒りでも、哀しみでもない。
ただ、静かに積もった後悔のような――にじむような痛みだった。
仁科は、写真をそっと閉じた。
そしてポケットにしまいながら、小さく笑う。
「……けど、俺にはもう、選べる道なんて残ってねぇんだよな」
風が吹いた。
夜の静寂が少しだけざわめき、遠くから微かな羽音のようなものが聞こえた。
その瞬間、仁科の目がわずかに鋭くなった。
「……来たか。ようやく」
誰かが、彼を呼んでいる。
過去の影が、ふたたびその足元を掴みに来ようとしていた。
その気配に、仁科は立ち上がる。
コートの裾が、重く空気を切った。
このまま逃げることも、姿を隠すことも、できたはずだ。
けれど彼はもう、それを選ばない。
悠人たちを巻き込むことになると分かっていても――
今度こそ、もう一度立ち向かうしかない。
(つづく)
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