第45話
「こんな時に仕事をするつもりですか?」
「鷹栖さん……?」
鷹栖勇二郎は帽子を脱ぎ、軽く頭を下げながら病室に入ってきた。時景のぼさぼさ頭とは違い、きっちりと整えられた髪だ。彼の余裕も窺える。
「そんなに生活が厳しいのですか?」
時景は何も言い返せない。弱弱しい彼の姿を見た勇二郎は小さく息を吐き、近くにあった椅子を手に取り腰掛けていた。勇二郎がまっすぐ時景を見つめると、時景は気まずさを覚えたのかスッと視線を逸らす。勇二郎は彼の目の下に濃い隈が浮かんでいることに気付き、彼にバレないようこっそりその身を案じていた。
「宮園家の女中から話は聞いております。医者から、目覚めるかどうかも分からないと言われたと」
その通りなので、時景は返事をしなかった。勇二郎は話を続ける。
「もしよろしければ、どこか良い療養所を紹介しましょうか? 自然が多く、空気も綺麗なところが良い。その近くであなたと女中は居を構えて。四六時中看病するのもお辛いでしょう、看護婦の質もいいところを探して……」
「嫌だ!」
病室に時景の悲鳴が響いた。勇二郎は目を大きく丸める。まるで駄々をこねる子供みたいな返事だ、と勇二郎は思う。
「……俺は、あの家がいい」
「あのおんぼろな家ですか? ……そう言うと思いましたよ」
時景は顔を上げて勇二郎を見つめていた。
「きっと琴乃さんが今のあなたと同じ立場になったならば、今のあなたと同じことを言うのでしょうね。あの家で共に暮らしていきたい、と。……あの日のことを思い出す」
「……あの日?」
「宮園家の事件と、琴乃さんの誘拐事件が起きた日。両日とも、私は琴乃さんと会って話をしているんですよ」
そんな話、全く聞いたことがない。時景は耳を疑い、口をぽかんと開けていた。
「全く、どんな因果なんだか。私はどうやら彼女にとって疫病神のようだ」
「話って、何を……?」
「宮園家事件の前は、婚約破棄と駆け落ちを告げられて。今回の事件の前は、その時の話を致しました。彼女はまだ何も思い出せないと言うから」
「駆け落ちのことは俺と琴乃しか知らないと思っていた」
事件のせいで忘れ去られていた、二人だけの約束。まさかこの男がその計画を知っていたとは思わなかった。
「英先生と共に生きていくのだ、と力強く話していましたよ、琴乃さんは」
勇二郎の視線が
「おそらく、琴乃さんのあなたへの想いの強さなら、傍にいたあなたよりも私の方が知っていたんじゃないかな?」
勇二郎は口をつぐみ、唇を強く噛んでいた。時景も眠ったままの琴乃を見て、勇二郎は彼の横顔に見つめる。愛し合う二人の姿は眩しく、羨ましくて仕方がない。自分も彼女とそうなりたかったのだ、と唇を噛んだ。自分も時景のように、強い縁で彼女と結ばれたかったのだ。しかし、いい加減諦める他ない。
「きっと目覚めます、琴乃さんは。あなたと生きていきたいと言っていた……私は、彼女の言葉を信じている」
再び引き戸が開く。背広を着た男性が見たことのない花を持っていた。赤い小さな花が鞠のように咲きほこっている花束だ。
「勇二郎坊ちゃま、遅くなりました」
男はどうやら勇二郎の従者らしい。勇二郎は男から花束を受け取り、病室を見渡す。
「花瓶もないのか。まあいいか、どうぞ」
「……ありがとうございます。あの、これは何という花なのですか?」
「ご存じないのですか?」
勇二郎は片眉を上げる。思わず鼻で笑ってしまう。
「愛する妻の好きな花も知らないなんて、お笑い種ですね。琴乃さんが目覚めたら教えてもらうと良い」
花言葉は永遠に自分だけのものにしてもらいたい、と勇二郎は思う。こんなもの、ただの負け惜しみなのはわかっている。けれどそれだけが彼女との唯一の縁であり、時景に勝ることができる点なのだ。
「あと、そのみっともない髭も剃った方がいい。琴乃さんが目覚めた時、初めて見るものがそんな顔だったら驚くでしょう?」
赤い花の花束を置いて、彼は病室から去っていく。時景は花瓶を病院から借りて、その花を生けた。名前も知らない花を見ながら、時景は勇二郎の言葉を思い出していた。
――信じている。
それは時景が見失いかけていた気持ちだった。ぎゅっと目を閉じた後、ゆっくりと目を見開き、空に登り始めた三日月を見て思う。そうだ、信じよう。琴乃の生命力と、そして――奇跡が起きることを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。