第42話


 三郎が銃口を琴乃に向ける。琴乃はぎゅっと目を閉じて、再び祈る。時景は必ず助けてくれる、私は彼を信じている! と。心に強く念じた瞬間――琴乃の脳裏に、まるで写真がばらまかれたかのように、様々な景色が広がっていった。初めは白黒モノクロなのに、すぐに色づき、音も聞こえてきた。


 それは……見たことのある景色ばかりだった。


 そこは洋館の玄関前。父の運転手だった井上正雄が車を磨いている。


「琴乃お嬢様、おかえりなさいませ」

「ただいま帰りました。井上さん、父は家に?」

「ええ」

「よろしければ、また車で女学校まで送ってくださいね」

「もちろんですよ、お嬢様」


 そこは質素だけども広い台所。女中のハルとヨネもいる。


「琴乃お嬢様、お帰りなさいませ」

「おかえりなさい、お嬢様」

「ただいま。お母様は?」

「旦那様と書斎にいるかと。あとでお茶とお菓子をお持ちしますね」

「ありがとう」


 そこは庭の草木が良く見える廊下。父の秘書の藤野武光が庭の中で佇んでいる。


「藤野さん、お久しぶりです」

「あぁ、琴乃お嬢様、ご無沙汰しております。いや、宮園邸のお庭は相変わらず立派ですね」

「ありがとうございます」

「お嬢様の鉢植えには花がつきましたか?」

「いいえ、まだなの」


 そこは……たくさんの本が詰まった書斎。琴乃の両親が仲睦まじく話をしている姿。


「あら、琴乃、帰っていたの?」

「琴乃、おかえり」

「ただいま帰りました、お父様、お母様」


 失われた皆の記憶が蘇る。皆、ここで生きていた人たち。彼らの命を奪った者の正体に、琴乃も気づき始めていた。琴乃は唇を噛み、三郎に向かって声を荒げた。


「私の両親を、みんなを殺したのも……それもあなたなの!?」


 三郎は驚き、口をあんぐりと開けている。


「お嬢さん、まさか、記憶が……」

「答えなさい! あなたが私の家族を殺したね!? お金のために!」

「……あぁ、そうだよ!」


 開かないようになっていた琴乃の記憶の蓋が、今、開け放たれる。事件の記憶が一気に蘇っていく。


 あの日……琴乃は帰宅したらすぐに部屋にこもって駆け落ちの荷物を用意しようと思っていた。玄関のドアを開けた時、灰色の煙が噴き出した。それを吸い込んだ琴乃は咳き込んでしまう。咳き込みながら、琴乃は屋敷の中を見た。玄関だけではなく六の廊下も煙が充満している。火事だ、と琴乃はすぐに気づいた。

 両親や家人は無事なのか、琴乃は庭から回って勝手口に向かった。誰かが避難している形跡も、通報をされた形跡もない。琴乃は煙を吸い込まないようハンケチを口に当てて、勝手口の引き戸を勢いよく開けた。


「お母様、みんな!」


 次の瞬間、琴乃は驚きのあまり尻餅をついていた。叫びたくても体が震えて声が出てこない。母と女中の二人が土間に伏せて倒れている。琴乃は震えながら、這うように母に近づいた。


「……お母様? お母様!?」


 母の体を揺さぶって起こそうとするが、ぴくりとも動かない。母の体は冷たいような気がする。琴乃は母の首筋の血管に触れた。脈は、触れなかった。同じように倒れている女中のハルもヨネにも手を伸ばすが同じだった。


「あ……あ、あ……」


 言葉が出ない。琴乃は煙を吸い、咳き込んでしまう。この時は、火事のせいで三人が亡くなったのだと思っていた。琴乃は廊下をよろよろと進む、三人が亡くなっていることがあまりに衝撃的で、脚に力が入らなくってうまく歩けなかったのだ。


「お父様は……?」


 琴乃はふらつきながらも急いで書斎に向かう。煙をたくさん吸い込んでしまったから、呼吸は苦しく、頭も痛くなってきた。けれど、今はそれどころではない。


「お父様!」


 琴乃は書斎のドアを開ける。目の前に広がるのは、思いもよらなかった光景だった。


「……お父様?」


 書斎の椅子に座り込んだ、父の姿。額の真ん中から血を流し、目を見開き、ぐったりとして体は動かない。琴乃は足もとを見る、秘書の藤野と運転手の井上が床に倒れていて、床には深紅の血だまりができていた。父と同じように、二人はぴくりとも全く動かない。


「お父様。お父様……いや……嫌――っ!」


 琴乃の悲痛な悲鳴が屋敷中に響くが、その声はたった一人の耳にしか届いていない。そしてそれは、彼女を助けてくれる人間ではなかった。


「誰か、誰か助けて……!」


 この時、マサと三郎の姿がなかったが琴乃はそれに気づいていなかった。外に出て、助けを呼ばなければ。そうだ、先生に……。琴乃が今頼ることができる相手は、彼しか思いつかなかった。震える足で玄関に向かおうと書斎を出た時、誰かが琴乃の背中に向かって声をかけていた。


「琴乃お嬢さん」

「……三郎さん!」


 琴乃はハッと振り返る。良かった、まだ生きている人がいる! 

 しかし、その希望はいとも簡単に打ち砕かれた。彼の着物が血まみれだったからだ。三郎は書斎に置いてあったはずの硝子製の灰皿を持ち、大きく腕を上げて、琴乃に向かって振り下ろしていた。


「いや! やめて、三郎さん!」


 しかし、三郎は再び灰皿を振り上げて、琴乃に向かってくる。


「いや……誰か、助けて……!」

「助けなんて来やしませんよ。お嬢さんも、旦那さんたちとここで死ぬんです」


 人生の絶頂のような幸せを味わったのと同じ日に自分が死ぬ? そう考えると、琴乃の体がさらに冷たくなっていく。煙の吸い過ぎでぼんやりとする頭を抑えながら、琴乃は急いで玄関に向かう。後ろを振り返ると、灰皿を持った三郎が追いかけてくる。急がなきゃ、早く、早く――そう思って玄関に辿り着いたが、扉(ドア)を開けようとしたのと同時に、後頭部に今まで感じたことのない強い痛みを感じた。最後に見たのは、血まみれの三郎の姿だった。


 そして、病院で目覚めたのだ。すべての記憶を失って。

 琴乃は目の前にいる三郎を睨みつけた。琴乃に銃口を向ける彼の手は小刻みに震えていた。


「この畜生! 外道! 私の家族を返して!」

「仕方ないだろ! 旦那さんが悪いんだ! 俺が賭博場に出入りしているからって、学費も実家への仕送りも全部打ち切るなんて言うから!」


 賭博にハマっていること、借金を重ねていること。面倒を見ていた書生が学業をそっちのけで遊び惚けているのを知った宮園家の主は、すさまじい怒りを三郎に見せていた。今まで三郎に費やしていた金も時間も全部無駄になったと言い放ち、全ての援助を打ち切ることを決めた。それをきっかけに彼は宮園家に恨みを抱くようになった。赤の他人から見ればたったそれだけの理由で、三郎は六人もの尊い命を奪ったのだ。


「金持ちに俺の気持ちがわかるわけない! 俺みたいな貧乏の家の出の人間が、逆転できる手段なんて限られているのに!」


 三郎は引き金に指をかける。


「話はもういいでしょう。あんたは用済みなんだ……今まで世話になったな」


 琴乃はぎゅっと目を閉じて、奇跡が起きることをただ祈っていた。時景ならきっと助けてくれると信じて、彼に思いを馳せていた。

 脆くなった宮園邸。天井からパラパラと焦げた木くずと埃が落ちてきた。三郎は弾を外さないよう、確実に琴乃を殺めようと一歩、また一歩と近づいてくる。もう奇跡なんて起きないんだと琴乃が諦めかけたその瞬間――彼女を縛り上げていた紐が切れ、それと同時に……天井から男の叫び声が聞こえてきた。


「――琴乃!」


 琴乃と三郎は同時に天井を見上げていた。まさか、と言わんばかりに二人は目を見開く。その瞳には、それぞれ希望と絶望が宿っている。

 天井が崩れ、時景が落ちてくる。琴乃がずっと待ち焦がれていた姿だ。驚いた三郎は銃口を時景に向ける。琴乃には、彼がやけにゆっくり動いているように見えた。急いで足首の紐を切り落とし、琴乃は身を投げ出す。銃口を向けられていた時景を庇うように。


 そして、一発の銃声が鳴り響いていた。

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