第26話


 ***


 納戸からガタッと大きな音が聞こえた。克治が振り返ると、少し青白い顔をしたテルが戻ってくる。


「お前、珈琲豆取ってくるだけでどれだけ時間がかかってるんだよ」

「ご、ごめん……」


 テルの様子が少しおかしい気がする。珈琲豆を受け取った克治は「大丈夫か? 熱でもあるんじゃないか?」と彼女の額に触れようとするが、テルはさっとその身を引いた。克治は訝しむ。


「変だぞ、お前。顔色も悪いし。少し休んできた方がいい」

「……うん、ありがと」


 声にいつもの覇気がない。テルが店の二階にある自室に向かうのを克治は心配そうに見つめていた。


「何あったんだ、アイツ」


 克治は急いで珈琲を淹れようとしたが、琴乃たちのテーブルはもうお開きの空気が流れ始めていた。人妻の千代を長く外出させるわけにもいかない、と梅子が話を切り上げていた。そ時景も、克治に「もういい」と手振りで伝えている。克治は珈琲豆を置き、四人を見送る。

 ロマン堂を出た四人。時景は少し離れて、女子三人の様子を見守る。千代も梅子も名残惜しそうに琴乃の手を握っていた。琴乃も二人と打ち解けたのか、少し別れがたいみたいだった。


「また会いましょうね、琴ちゃん」

「はい。その時には何か思い出せていたらいいのだけど……」

「いいえ。私たちは『琴ちゃん』に会いたいの。記憶が戻っていることが一番いいのでしょうけど……でも、琴ちゃんに無理はしてもらいたくないから。気を楽にして、ね?」

「……ありがとうございます、千代さん」

「そうだ。琴ちゃんの家にお手紙を書いてもいいかしら? いいですか? 英先生」


 時景は頷く。梅子も弾みながら手を挙げた。


「私も! 私も書いていいかしら?」

「私も書きます。英先生にお二人の住所を教えてもらいますね」

「……そうだわ。琴ちゃん、ちょっと」


 千代が琴乃の腕を引いて、耳元に唇を寄せ小さな声で話し始めた。


「琴ちゃん、今、英先生と一緒に暮らしているのよね? 英先生の『奥様』として」


 琴乃がポンッと赤くなり、恥ずかしそうに俯いた。確かに彼女たちは間違いなく「夫婦」となったのだから。恥じらう琴乃を見て、千代は既婚者の先輩として琴乃に助言したいことがあった。梅子もその内緒話に耳をそばだてる。


「だったら、『旦那様』って呼んでさしあげたら?」

「えっ!?」

「千代ちゃんの言うとおりだわ。いつまでも『先生』じゃよそよそしいもの。旦那様じゃなくてお名前でもいいと思うし」


 梅子も首を突っ込んでくる。琴乃はちらりと時景を見た。女性たちの内緒話に興味がないのか、邪魔をしないようにと考えているのか、彼は少し離れたところに立っている。


「そうね、そうよね」


 彼だって琴乃のことを「琴乃さん」と呼ぶのをやめてくれた。だったら、自分も同じであるべきだ。自らを鼓舞するように何度も頷く。二人は「頑張ってね」と応援してくれた。琴乃と時景は二人を駅まで見送ってから、自宅に向かった。


 ***


 夜。時景の部屋から月が見える。琴乃はそれを見上げる。時景はまだ風呂に行っていて、琴乃一人きり。その月を見ながらため息をつく。彼女の横顔には少し疲労の色が滲んでいる。知らない人と、初めて知ることばかりの話を聞いて疲れたようだ。指先で頭をもみほぐし、再び深く息を吐く。

 何も思い出せなかったけれどとても楽しかった。そして、新たに気になることが生まれた。それは、婚約者だったという男の存在。彼が、琴乃の心の中で引っかかっている。その婚約者とやらは今どうしているのか、千代も梅子も、時景も教えてくれなかった。


「琴乃、まだ休んでいなかったんですか?」

「はい。……あの、先生」


 時景が頭を手拭いで拭きながら自室に戻ってきた。まだ癖で「先生」と呼んでしまう琴乃は彼から手拭いを受け取って、座る時景の頭を拭き始める。癖の多いくしゃくしゃの髪、その一本一本すら愛おしくて仕方がない。今こそが琴乃にとっての一番の幸せな時間。けれど、琴乃がそんなひと時を「夫」と過ごしている間……元婚約者だったという男性は、本来「夫」になるはずだった男性は、どう過ごしているのだろうか?

 琴乃は思わず時景に尋ねていた。


「どうして私は、婚約者ではなく、先生と共にいることを選んだのでしょう?」


 まだ聞いていなかったことがある。どうして二人が「駆け落ち」という手段を選んだのか。時景は小さく息を吐きだし、頭を拭いている琴乃の手を止めて、自らの胸元に引き寄せた。彼女は彼の胸元に飛び込み、背中に腕を回す。心地のいい時間だ。どうやって自分はこの時間を勝ち取ったのだろう?


「琴乃に婚約者がいると知って、その男が心の底から妬ましく思った。それが、俺にとっての恋の気づきだったんだ」


 花がほころぶみたいな笑顔を自分に向けてくれる彼女の存在が、時景の中でかけがえのないものになっていた。国語研究室でも授業中でも、目を合わせたらにこりと柔らかく微笑んでくれる。彼女の表情を見るたびに、時景の心は弾んでしまう。それはまさしく恋の歓びだった。その笑みを自分にだけ向けてほしい、他の男に見せないでほしい……しかし、彼女を独り占めしたくでも現実が彼を押しとどめる。琴乃には先約があり、自分は一生その男には勝てない。それに、時景は「生徒」であり「ただの愛好家ファン」である琴乃にこの想いを知られたら嫌われるに違いない、と思っていた。きっとこの重たすぎる想いは迷惑になる。あの笑顔を自分に向けてくれなくなる。そうなるくらいなら、今の関係を大切にし続けようと自らに言い聞かせていた。ただの作家と愛好家ファン、ただの教師と生徒のまま……けれど、自らの欲望は言うことを聞いてくれない。決して消えない欲望を抱いたとき、自分はどうしたらいいのかと悩んだが、すぐに答えが出た。ならば、それを物語に落とし込もう、と。

 新聞に連載していた上流階級の女性と一介の学生の恋物語。結ばれることが困難だった二人をどうやって幸せな結末に導けるのか。作家としてずっと悩み続け、ようやっと時景はその答えを見つけ出したのだ。自らの苦悩を糧にして。二人が明るい未来を生きていくために、時景は「駆け落ち」を描くことにした。現実から目をそらし、せめて夢の中くらいは自分の幸せを描こう。


 時景はそんな決意をした日のことを思い出し、琴乃から離れて立ち上がる。温かかった彼がいなくなると、秋の冷え込みが一気に身に染みこんできた。

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