第三章

第13話


 自身の欲望に気付いて以降、琴乃は時景との「過去」ばかりが気になっていた。もちろん、両親や使用人たちを殺害したという憎き犯人のことも気がかりではあるが……時景と共に暮らしていると、意識がそちらに割かれてしまうのだ。自分と時景の過去を知る手段もたった一つ。それは時景に聞くこと。けれど、肝心な時に勇気は出ないし、なんだか恥ずかしいし、そして何より時景が部屋に籠っている時間が長くて中々声をかける機会がなかった。あとは、「今」知っていいのか……という迷いもある。過去の話を聞いて先日のように倒れてしまったら元も子もない。


 時景はあれからいくつか仕事の依頼を受けたらしい。同人誌の原稿や、以前連載していた婦人誌に掲載する読み切りの短編。時景は「ありがたいことだ」と言って部屋でずっと執筆をしている。締め切りが近いのかろくに食事もとらず、心配したマサがおにぎりを作っては部屋に届けている。

 時景への新しい依頼と琴乃の喫茶ロマン堂からの給金。実入りが増えて食卓のおかずは増えたけれど、まだぎりぎりの生活らしい。マサも難しい顔をして帳簿と向き合い、買い物をするときも少しでも安い食材を吟味して生活費をやりくりしている。

 二人の姿を見ていると、自分の過去を知るよりも先に今の生活を安定させるべきなのでは、と琴乃は仕事へ向かう。少しでも多く稼がないと、自分のことを役立たずだと思いたくないのだ。


「コトちゃん、紅茶お願い」

「……」

「コトちゃん?」

「はい! 珈琲ですね!」

「いや、紅茶だってば。ねえ、大丈夫?」


 でも仕事に身が入らず、琴乃はうわの空になってしまう。テルや克治だけではなく、常連客にも心配されてしまう始末。開店してからずっと珈琲を飲んでいた若い男も帰り、客足が遠のいてから、琴乃はがっくりと肩を落としながら克治が淹れてくれたお茶を飲んでいた。


「今日はごめんなさい。何度も注文を間違えてしまって……」

「大丈夫! ウチなんてしょっちゅうだし!」

「お前もこれくらい反省したらどうだ?」

「うるさいな、オッサンは!」


 二人の楽しそうなやり取り、いつもなら微笑ましいと思うのに……今日は申し訳なさが先に立つ。テルは落ち込んでいる琴乃をとても心配しているみたいだった。隣に座って寄り添ってくれる。


「大丈夫? まだ生活が苦しいの?」

「こら、お前はまた余計なことを」

「それもあるんだけど……私は、本当にこのままで良いのかしらって思って」


 二人には宮園家惨殺事件のことは話していない。余計な心配をかけたくなくて、琴乃はあえて黙っている。だからきっと、二人とも記憶喪失のことをとても悩んでいると思っているに違いない。


「別にいいんじゃない?」

 

 テルはあっけらかんとしている。


「あの先生もそれでいいって言ってくれてるんでしょ? 何に不満があるの?」

「不満……?」


 テルにそう指摘されて、琴乃は初めて自分が不満を抱いていることに気付いた。でも、それをどう時景に説明したらいいのか? また悩み事が増えた。琴乃は深くため息をつき、背中を丸める。悩める琴乃の様子を見て、克治は「いい話をしてあげよう」と口を開いた。


「いい話ぃ?」

「あぁ。大戦の後、俺を助けてくれた美しい女の人の話だ」

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