第11話


 三郎が連れてきた医者は気付け薬を処方して、彼女が目を覚ましても気分が良くなるまで安静にするよう時景たちに指示して早々に帰っていった。琴乃を彼女の部屋の布団に寝かせ、一同、廊下に出る。情緒不安定になったマサは声を上げる。


「だから反対だったのです! こんなことになるなら強引になってでも止めておくべきだった! もう、事件の話なんて私の目が黒いうちは絶対にしないでくださいませ!」

「マサさん、落ち着いて」

「離しなさい、三郎! 私たちの大切なお嬢様よ!? どうして何度もこんなに苦しい目に遭わなければいけないの!」


 怒るマサを取り押さえるのは三郎の役目だったが、彼女は今にも三郎の腕を振りほどきそうだ。


「琴乃さんが起きてしまいます、マサさん、頼むから落ち着いて」


 時景が宥めるとようやっとマサは落ち着いたように見えた。何度か深呼吸を繰り返したのに、今度は自身の目尻の涙を拭う。


「お労しい琴乃様……まだ心の傷は治っていないのよ……あぁ、私まで頭がクラクラしてきたわ」

「大丈夫かい? 下でお茶でも飲もうよ、マサさん。少しは落ち着くんじゃないかな?」


 フラフラと階段を下りていくマサと、それを支える三郎。しばらく彼女のことはあの記者見習いに任せよう、と時景は思う。史弥を見ると、顎のあたりを撫でて何かを考え込んでいた。時景は自室のふすまを開け彼を部屋に招き入れた。


「さっきから何を考えているんだ、史弥は」

「なぜ奥さんの気がふれたのか、だよ」


 史弥は時景の部屋でドカッと座り、何かを探るように胸のあたりを触れる。時景はすぐに気づく。


「煙草なら居間じゃないか?」

「そうだった、クソ。考える時は煙草が一番なのに……もしかして奥さんが倒れたのは火を見たことが原因か? ほら、奥さんは火事から助け出されている。きっと火が怖くなったに違いない」

「それはないな。マサさんと一緒に台所仕事をしている」


 かまどの火を一生懸命起こしている姿を何度も目撃した。火に対する恐怖心はなさそうだ。


「それなら煙草は? お前は吸わないから見る機会もないだろうし。きっと犯人が吸っていたに違いない」

「喫茶店の客が吸っている姿を見ているはずだ」

「あぁ、最近働きだしたっていう喫茶か。……じゃあ何が原因なんだ?」


 時景よりも史弥の方が考え込んでいた。しばらく黙り込んで、ハッと顔を上げる。


「どうかしたか?」

「いや、少し思い当たることがあったんだが……でも確証はない、もう少し調査をする必要があるから今は話すのはやめておく。奥さんにお大事にと伝えておいてくれ」

「あぁ、今日は悪かった。わざわざ来てもらったのに」

「いいさ。親友と、その奥方のためだったら僕はいつだって飛んではせ参じるさ」


 芝居のセリフみたいな気障ったらしい口調だけど、今だけは時景には頼もしく聞こえた。二人で下まで降りると、三郎がマサにお茶を飲ませていた。史弥は背広と煙草を回収して、三郎に声をかける。


「おい、行くぞ」

「はい! じゃあ、マサさん。何かあったら連絡をくれよ」

「えぇ、わかっていますよ」

「そこまで送っていきます。マサさんは琴乃さんのそばにいてあげてください」


 マサの見送りを受ける三人。玄関を出てすぐ史弥が煙草を吸い始めていた。


「時景、お前は誰が犯人だと思う?」


 史弥の問いに時景がどう答えるのか三郎は気になるのか、時景の顔をまじまじと見つめる。


「もう何度もその話をしたけれど、結局答えは出なかっただろう」


 行きずりの犯行なのか、宮園家に恨みを持った人間によるものなのか。宮園家が滅んで得をする人間かもしれないし、家族や使用人といった内部の犯行かもしれない。答えの見つからない問い、時景は毎夜のように悩んでいる。史弥は煙草を大きく吸い込んで、ゆっくりと煙を吐き出しながらこう言った。


「奥さんが犯人の可能性だってある」

「お前、いい加減にしろ!」


 激昂のあまり声を荒げる時景。彼に怒鳴られていることには慣れているのか史弥は涼しい顔をしたままだった。


「絶対にそれだけはない」

「なぜないと言い切れる? 奥さんには事件発生時の不在証明(アリバイ)もない。分かっていないだけで動機があるかもしれない。記憶喪失だって言っているけれど、それも詐病かもしれないだろう」

「彼女が嘘をついているって言いたいのか? 琴乃さんがそんなことをするはずないだろう!」

「お前は奥さんのことを神格化しすぎなんじゃないか? 惚れた弱みか知らないが」


 時景が今にも史弥につかみかかりそうなので、三郎は間に立って「どうどう」とまるで馬を宥める時のように時景を落ち着かせようとしていた。


「お前のやることは限られている。奥さんのことを守りながら、奥さんが犯人ではないという証拠を見つけること。他の雑事は全部僕が引き受けてやるから、お前は奥さんの事だけ考えるんだ。そして……お前が奥さんが望むことを全て話してやればいい」


 時景は言葉を詰まらせる。


「じゃあ、またな。何かあったら連絡をくれ。おい、三郎、カフェーに行くぞ」

「こんな時にですか?」

「奥さんが女給やっているカフェー、興味がわかないか? それに煙草だけじゃ足りん、珈琲で頭をすっきりさせたい」

「はあ、いいですが……失礼します、英先生!」


 ***


 深夜。時景はマサを休ませて、代わりに彼が琴乃のそばに座り込んでいた。琴乃はまだ目覚める気配はない。ずっと眠っている琴乃を見ていると、学生時代に習った欧州の昔話を思い出す。呪いをかけられて深い眠りに落ちてしまった姫の話。あの姫はどうやって目を覚ましたのだっけ? 欧州の物語には興味が持てなくて真剣に授業を聞いていなかったから、時景はオチを思い出せなかった。

 時景はため息をつく。――琴乃が犯人かもしれない。それは、時景も考えたことがあった。『ある事情』が原因で家族の存在が邪魔になってしまい、カッとなって突発的に犯行に及んだ可能性がある。しかし、そんな凶行に及ぶ琴乃の姿が彼には想像できなかった。それはきっと、時景は心の底から琴乃のことを信じているから。今は彼女を信じることしかできないのだ。事件を調べるのも人任せ……なんて哀れな男だろう、と彼は自嘲する。

 時景は窓掛カーテンを開ける。月明りが部屋に差し込んだ、それを浴びていると心が凪いでくるような気がした。時景は上弦の月を見上げて琴乃のことを想っていた日々を思い出す。彼は思い出す……「あの晩」は三日月だったはずだ、と。しばらく月を見ていると、その明りに照らされた琴乃が眉をしかめていた。


「琴乃さん?」


 時景が彼女の名を呼ぶと、琴乃はゆっくりと目を覚ました。


「……英先生?


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