喫茶ルミエールと異世界の来客

@mizu_aoi01

第1話

 都内の一角、人気のない裏通り。

 街の灯が滲み始める黄昏時に、スーツ姿の女性は仕事帰りに急に雨に降られ、傘も持たずに走っていた。


「……待って、ここにこんな路地あったっけ?」


 毎日の通勤で使う道を間違うはずがないのだが、気づけば彼女は見慣れない小道に足を踏み入れていた。

 静かで、雨音さえ柔らかく響くその通りの先に、ぽつりと灯る小さな明かりが目に入る。


 薄く風化している木製の看板には、手描きでこう書かれていた。


『喫茶ルミエール』


 古びたランプ、すりガラスの扉。かなりレトロな雰囲気がどこか懐かしく感じる。

 彼女は引き寄せられるように扉を開けると、鈴の音が静かに響いた。


「……いらっしゃいませ」


 カウンターの奥から、落ち着いた声がした。


 店内は驚くほど静かで、温かい空気に包まれていた。

壁には古い時計、窓際には小さな観葉植物。ダークブラウンの木製のテーブルや椅子がレトロな雰囲気を感じさせる。


 それなのに、どこか現実味が薄い――夢の中に入り込んだような、不思議な感覚があった。


 カウンターの向こうに立つ一人の男。


 白いシャツに黒いエプロン。少し長めで無造作に束ねた焦茶の髪。年齢の印象は三十代後半に見える。


「……ご休憩ですか? それとも、道に迷われた?」


 女性は戸惑いながら頷いた。そんなに顔に出ていたのだろうか、と内心考えつつ。


「少しだけ、居てもいいですか?」


「もちろんです。雨が止むまで、ごゆっくり」


 彼女はおそるおそる窓際の席に座った。

 メニューはなく、注文も聞かれなかった。

 だがしばらくすると、目の前にふわりと湯気の立つカップが置かれる。


「サービスです。……なんだか疲れているように見えましたから」


「……あ。ありがとうございます」


 コーヒーを一口含むと、彼女は驚く。

 酸味と苦味、そして深い香りが、まるで身体に染み込むように広がっていく。

 コーヒーの味と店の雰囲気から、彼女は何故だか既視感を覚える。


「……不思議ですね。初めて来たのは間違いないのになんだか、前にも来た事があるような気がしてます」


 思わず漏れた言葉に、マスターはふっと笑った。


「はは、どこかと間違われているかもしれませんね。まだここに店を構えてからあまり経っていないので」


 そのとき、奥からひょこっと顔を出した小柄な少女が、こちらに手を振った。

 桃色の髪、ふわふわした耳。

 耳を見た彼女は、見間違いだろうかと何度か瞬きをする。


「こんばんはー!」


「……こ、こんばんは……?」


 挨拶を返された時の少女の笑顔はとても無垢で愛らしく、先ほどの疑問も消えていた。

 その後少女は一生懸命にお手伝い──テーブルの拭き掃除を始めた。


「……マスターさんのお子さんですか?」


「いえ、親戚の子です。……時折私が代わりに面倒を見ているんですよ」


 お手伝いを進んでしてくれる良い子なんですよ、と優しげに少女を見つめつつマスターは言う。


 他人の家事情を聞くのは良くないだろうと思った女性は、話を止め目を閉じてゆっくりとコーヒーを味わう。


 雨音と、音量小さめにレコードから流れるジャズ。少女がテーブルを拭いている音に、マスターがコーヒーミルで豆を挽く音。

 どの音も騒がしいと感じる事無く、居心地の良い空間の要素の一助となっていた。


 ──そんな憩いの時間の終わりを告げるかのように、女性のスマホのメッセージアプリの通知音が鳴った。

 外を見ると雨はいつの間にか止んでいた。


「あの、コーヒーご馳走様でした。……その、また来ても良いですか?」


 店を出る前、私は何気なく彼に尋ねた。


「ええ。必要な時には、きっとまた辿ますよ」


 と、何か含みのあるような言葉と共に彼は微笑んだ。


 女性は少女にも別れの挨拶をした後に再び扉をくぐり、現実へと戻っていく


 その夜、彼女は「喫茶ルミエール」のことを、誰にも話さなかった。

 何故なら、店を出て少し歩いた時にはもう彼女の記憶から喫茶ルミエールの事は消えていたのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

喫茶ルミエールと異世界の来客 @mizu_aoi01

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る