稔の発端、魔導局にて。下

 あれから数日が経つ。稔のためのパンダ部屋は医務室から移された。窓がない代わりに、壁と天井には明るい青空が描かれ、やさしいお日様の光と雲が流れ続けている。ランダムに様々な色の小鳥や大きな猛禽類、ドラゴンが飛んできてはどこかへ行くので、それが面白くて軟禁状態だが退屈じゃなかった。それだけじゃない。


「いくぞ、ぼたもち。それ、取ってこーい」

「わんっ」


 ポーンと投げたキラキラ光るボールをぼたもちは一生懸命追いかける。稔の処遇が決まらないのでどこに行くこともできず、不憫に思った局員達が色々玩具やお菓子を持ってきてくれたのである。彼らも子供を軟禁していることは不本意だった。


「ミノリくーん。げんきぃ〜? うぉ、ボールが浮いてる……」

「シャオウェイさん! こんにちは。あそこ、ぼたもちがいるんです」

「わんっ」


 ご主人のお友達に挨拶したので、ボト……とボールが落ちた。毎日顔を見せに来てくれる暁偉に稔は慣れて、すっかり懐いていた。だから、ぼたもちも愛想良くしてるのである。彼はいつも急にやってきて遊んでくれるか、お昼ご飯を持ってきてくれる。


「ヤ、遊び来たよぉ。でも、まずご飯ネ。こちら本日のミノリくん専用ニコニコプレートでぇす」


 そう言ってパンダのお顔に乗ったお子様ランチを机に載せる。三分割されたお顔には、蒸し野菜のサラダとハンバーグ、うさぎリンゴ。右耳には果物ゼリー、左耳にはオレンジジュースが乗っている。主食はまん丸のバターロールが二つ。


「いただきます」

「はい、イタダキマス」


 ファミレスでも、もう大人と同じメニューを頼む稔だが、久しぶりのお子様ランチはちょっとテンションが上がる。一回喜んだら、暁偉さんも嬉しくなって、毎日ニコニコプレートを持ってきてくれるようになった。パンダちゃんのピックをハンバーグにさして、ニコニコ「可愛いデショー? 」と言うので、稔も「はい、可愛いです。ありがとうございます」とニコニコした。気にかけてくれる大人が嬉しかった。


「うま。ハンバーグおいしいです」

「そっかァ、おなかいっぱい食べな」


 もぐもぐ一生懸命食べる姿を、暁偉は頬杖をついて嬉しそうに眺めている。昔の妹を思い出していた。


「ご馳走様でした、美味しかったです」


 もらったナプキンでゴシゴシ口元を拭って、手を合わせる。暁偉は、パンダちゃんのお顔が見えるようになったお皿を机の端に寄せると、分厚い本を取り出した。


「ジャーン。今日はお話持ってき来たんだぁ『ヒノモト冒険記』」

「わ、読み聞かせだ」

「ただの本じゃないぜぇ、仕掛け絵本だ」


 開かれた最初のページは海だった。途端に本から海水が重力に従って流れて落ち出す。稔はギョッとして、机を見たが不思議と机は濡れて無い。海の真ん中には桃色の雲が渦を巻いていて、雲に混ざって同じ色の花弁が流れている。その奥に島の影が見えた。

 自然に稔の口はパカーと開いて、わ……! と無意識に声が出た。こんなの、こんなの……


「さ、触ってみてもいいですか!」

「イイヨー」


 テンションぶち上がるに決まっている……!!

 そっと本から流れ落ちる海水に手を伸ばすと、冷たい水の感覚がある。けれど全く濡れなかった。感覚と現象の不一致に胸がザワザワして、何度も水に触れては手が濡れていないことを確認した。


「す、すげぇ……」


 続けてフゥーッと桃色の雲を吹いてみたら、風穴が空いて奥の島がよく見えた。そしてしばらくするとまた、薄桃の花弁がヒラヒラ舞って霧が濃くなる。稔はすっかり夢中だった。


「じゃ、始めるヨー」

「はい!」


 稔はクッションに座り直して、ぼたもちを抱っこした。ワクワクしている稔に読み聞かせが始まる。それは一人の男が町中の反対を押し切って隠された島『ヒノモト』へと船を進める冒険譚。


「『こちらの桃色の花弁の霧、この花はサクラという木に咲く花だと僕は後々に聞きました。この霧は船乗りを惑わし、決して島には寄せ付けない。誰も辿り着けない島がある。行けばきっと、みんな僕を褒めてくれて、可愛いあの子も僕のことをカッコイイと思ってくれんじゃないか。そう思ったんです』」


 町の人々に夢を語るコロンブスだったが、皆からの風当たりは強く、夢想家は誰にも相手にされることは無かった。馬鹿にされるどころか、羊の番をしろと怒られてしまう始末である。コロンブスは海辺でしょんぼりしてた。


「『何も笑うことないだろ。でも、本当だ。だって海に出るにも、僕は船も持ってないんだもの……』だってさ、ミノリくん。どーする?」

「え……?」


 読み聞かせとは、ジッと静かに聞くものである。そう教室で教えられた稔はびっくりした。どーするって、何だろ。観客が劇中にできることを考えて、ひとつ思いついた。

「えっと……が、がんばれ。船がないなら作っちまおうぜ。まけるな、がんばれ」

 これだ! と思って、ちょっと恥ずかしかったが、一生懸命応援した。声に反応してひょこひょこ動くので、木を切りに行くのを期待して声を掛け続けた。


 -そっかァ。魔法がないのが当たり前だとそうなるのかァ……


 可愛かったので、暁偉シャオウェイはしばらく眺めていたかったが、進まないので助け舟をだした。


「……お船あげたら喜ぶんじゃなァい?」


 そう言って、チラリおもちゃ箱の方へ視線を送る。本の付属品のお船を混ぜておいたのだ。気付いてくれるかなー。とソワソワしながら稔を見守る。


「え、あげれるんですか! ……んー。あ、シャオウェイさん、要らない紙はありますか」

「おー? あるヨー。描いてあげるの?」

「いえ、作ります。船なら簡単だから良かった」


 まずは下準備である。ハサミが無くとも、折り目を爪で擦って跡を付けるとソコソコ綺麗に切れる。余分を切り取れば、要らない紙が正方形の折り紙に生まれ変わった。


「よし」

「?? オシマイ?」

「んーん、今から折ります」

「へぇ……」


 ここからどうなるのか暁偉には皆目検討もつかないが、とりあえず、黙って稔のやりたいようにやらせることにした。稔からしたら、この先は手馴れたもので、スイスイ折り目をつけて折って開いて。カタチを作っていく。暁偉かジッと見てくれるので、教えたくなって喋ってみた。

「ここからコッチに折ると、“家”になるんです」

「お、確かに家に見える……カモ」

「でも今回は家は作らないので、反対に折って開きます。で、またこのピロピロをコッチに持ってくと風車になるんです」

「カザグルマ? ほーん」

「今日は船にするから、半分に折って、コッチを戻して……できた」

「お? あーっ帆船か……! すごいじゃーん」

「これ、彼にあげられますか」

「もちろんヨー。ホイッ……『ミノリくん、ありがとうー!』」


 小さな人形がヒョイと折り紙の船に飛び乗り、海へと漕ぎ出した。カモメが本を飛び出して、稔の周りを飛び回って本の中へと帰っていく。

 それから、コロンブスはたくさんの国を越え、東へ、東へと船を進める。次のページをめくると、ふわり桃色の花弁がひとひら。宙を舞い机に落ちて消えた。



 **


 さて、場所は移って会議室。稔が魔導局から動けないでいる理由はここにあった。


「活発化している反社会魔術集団の動き、ドロールの違法渡航、ヒノモトの開国騒動。これらには関連があるのでは無いか」

「まずは、陰謀を勘ぐるより魔法の秘匿を第一に考えるべきだろう」


 ヒノモトのこと、少年のこと、ドロールの動向及び、機界カラクリかいへ戦争を仕掛ける可能性。議題も多く、未知のものが議題なので、憶測が飛び交う。

 会議は踊り、されど進まず。魔導局内だけでは纏まらず、日を改めて国内外の最高位ルビーの魔法使いや、国連の学者等を呼び寄せ、二日に渡って会議は続いた。


「……まずは少年の帰還とドロールを魔法界への送還。この二点を第一の目標とし、作戦は少年を送り届けた瞬間、境界の歪みに関与し魔法界生物は機界カラクリかいから反発を受けるように施すとします」


「……世界中の最高位ルビーが集えば叶うだろう。その間の治安維持や災害への体制を整えなけば」

「えぇ、国境を越えて魔導局がより一丸とならねばなりません。各国の魔導局にも速達を出すので、明日には通達が完了するはずです」


 牛歩の歩みでどうにか、目下のすべきことが定まった。少年は機界へ返し、ドロールは魔法界へ隔離する方針へ固まり、作戦実行へ向けた次の議題に移ろうという時である。


「失礼、ドクターより緊急報告がございます。少年の体内に死の刻印の残滓が見つかりました。また機族に対しての治療となれば、半年間妖精の森近辺で療養する必要があるかと……」


 急に頓挫して、また振り出しへ戻ってしまった。思わず机に突っ伏す者もチラホラ。


「なっ、もっと早く言え!!」

「無茶を言いなさる。いかっても仕方ないでしょう。血圧が上がりますよ」

「暴発していたからな、やはり庇い切れていなかったか……」

「待ってくれ。……時間をかければ自然治癒できる我らとは違い、機族ともなると……」

「えぇ、このまま手を加えずに帰せば、大人になることは叶わないでしょう」

「しかしだな! 半年も待てないだろう」

「ドロールの計画の全容が分からない以上、早期に手を打たねばならないというのに……! 少年の回復を待つ時間はあるのか」

「それ以前に、機族を長期間こちら置いておくなど、記憶の措置にも影響がでる。数日ならまだしも、返す際に完全に辻褄合わせができるかどうか。魔法の秘匿が叶わなくなるだろう」

「待てるか! すぐに行動に移さねば、何億の命が危ぶまれる! 戦争は絶対に起こしてはならん!」

「そうだ。歴史は繰り返さないために記されるのだ! 戦争は絶対に起こしちゃいかん!」


 再び、あーでもない、こーでもない、だがしかし……、が飛び交い始めた時。会議室の扉が開いた。


 -カツン。

 力強く喧騒を切り裂くパンプスは法廷のギャべル。金髪に紫の瞳を持つ美しい女だった。


「失礼致します。私、オリビア・スミスと申します。少年を庇い亡くなった、エリック・スミスの妻でございます。我が家は精霊の森に近く、少年の療養に最適な環境です。心得もございます。私が身元引受け人になります。あの人が命をかけて守った子を死なせてたまるものですか!」


 女の透き通る声はよく響いた。あまりの剣幕に会議室は静まりかえり、女の主張に大人しく耳を貸していた。

 彼女は夫の遺品を受け取りに来ていたのである。その際、少年が死の刻印に当てられたと聞いた。自分には治療ができる。医者よりも自信があった。一時的に預かろうと考え、会議室前で待機していたところ、何やら少年の処遇の雲行きが怪しくなってきたでは無いか。女はいても立っても居られず、会議室に乗り込んできたのだった。


 あの少年は生きなくてはならない。そうでなければ、あの人が何のために死んだというのだ。


「あー……ミス・スミス今は大事な会議中だ。我々も少年を見殺しにしたいわけでは」


 眉をひそめ、女を追い出そうとした魔導局の男を制するように、ブリテンの誇る魔法学校、その校長が手を挙げた。

 

「……少年はこちらに残しましょう。命には変えられません。帰還の時の措置もワシが責任を持ちます。ドロールを初めとする過激派組織を捕らえるまで長くて数年掛かりましょう。子供は生きるために学ばねばなりません、我が学び舎で生徒として迎え入れ、生徒として守りましょう」


「私も賛同致します。手はかかりますが、子は宝ですもの。ねぇ? 保護者にミス・スミスを推薦しますわ。皆様も、私の目を信じてくださるでしょう? 」


「先見の魔女殿が言うのであれば、私は異存ありません」


 校長に続いてルビー級の魔女が同意した。少年を残すことへの責任の所在もハッキリしたことも相まって、少々揉めたものの稔少年はドロール確保まで、魔法界に残留することになったのだった。


 **


「『海坊主さん、僕はあの霧の向こうへと行きたいのです』……だってよ、ウミボウズ・ミノリくん。どうにかこの霧無くせないかなぁ」


 少年の処遇を決める会議が収束した少しあと、こちらもクライマックスを迎えていた。

「……今度は分かります」

「わふわふ」

 ミノリは身を乗り出して一生懸命、桜の舞う霧を吹いて晴らしてやる。すると、コロンブスは嬉しそうに船を島へと進め始めた。霧がかかりそうになる度に一生懸命吹いて。ぼたもちはそんな稔をワンワン応援した。


「『やったぞ。辿り着いた! ぼくはやり遂げたんだ!』」


 ようやっと辿り着いた! とひと仕事終えて腰を落ち着けた時。コンコンッ、誰かがドアを叩いた。暁偉がのんびり「ドーゾー」と声を掛ける。


「こんにちは、ミノリくん。暁偉と遊んでくれてたのね」

「こんにちは、カトレアナさん。魔法の本を読んで貰ってました」


 カトレアナさんだった。机の傍に来ると直ぐに腰を落としてニコニコ話してくれる。稔も体の向きをずらして、カトレアナさんに向き合う。


「そうなの。まだ途中なのにごめんなさい。ミノリくんに会いたいって人が居るの。会ってくれない?」

「え。はい、分かりました」


 誰だろう。少し不安になって傍で捕まり立ちしてるぼたもちを撫でた。


「スミスさん、どうぞ」

「はい」


 カトレアナさんに促されて入ってきたのは、ふわふわ揺れる金髪の外国人さんだった。深い青のワンピースが良く似合うが、魔導局の人のコートは着ていない。慣れたカトレアナと違い視認した瞬間全身が強ばった。数日経ったとはいえ、稔は傷付いたばかりである。西洋系のクールな顔立ちの大人は怖い。まだ女の人だから耐えられるが。無意識に睨んでしまったのは、防衛反応だった。


「ヴゥゥゥゥ」


 主人の怯えを察知したぼたもちが犬歯を見せる。彼女を稔の敵と認識したのだ。途端に室内の温度が大幅に下がる。張り詰めた空気に、皆息を飲んだ。


「あ。そうよね、怖いわね。私はオリビア。ミノリくんと小さなお友達……怖いことは何もしないわ。約束よ」

「ガウ」

「きゃ」


 オリビアはそう言って、迷うことなくぼたもちを撫でようとして手を噛まれた。威嚇してるのに手を出すからである。少し考えたらわかるだろうに。馬鹿みたいなことをしてしまった。

 オリビアは『やってしまったわ……!』と冷たい汗を流して、次の手をぐるぐる考える。実のところ。保護者に名乗り出たは良いものの、オリビアは警戒心マシマシの子供相手にどうしたら良いか分からず、ガチガチに緊張しているのである。


 ここで失敗したら、きっと引き取ることは叶わない。どうにか心を開いてほしいのだが、人間の子供と接する事は不慣れで未知であり、いざ対面するとどうするのが最適解なのか分からなかった。当たり前の事だが、精神的ショックを受けている子供となれば殊更勝手が分からなくて、焦りが思考力を奪っていく。


「え……」


 一方。そんなことより稔は目の前の光景に驚いて、ぼたもちを止めるのが遅れた。彼女には、ぼたもちが見えているのだ。ここ数日で魔導局の色んな人がやってきたが、誰1人としてぼたもちが見える人はいなかったのに。


「えっと、どうしたら怖くないかしら……えぇと。あ、犬。きっと犬なら怖くないわよね、お友達だもの。良かった。犬なられるわ。身よ魂に委ね形を変えよメタモファミリエ


 こちらをパチクリと見ている稔に気が付かず、オリビアはブツブツと早口で思考を垂れ流しながら、急に魔法を使った。深い森の匂いがして、瑠璃色の木の葉が足元から吹き上げて彼女を包み、瞬く間に木彫りの犬が現れた。ぼたもちに似せたのか垂れ耳の犬だった。木彫りと言っても、ヤスリがけされているみたいに滑らかで、手触りが良さそうだ。暖かみのある木製の犬は、手作りの玩具みたいで可愛い。


「お、うわ……」

「わ、わふ……」


 稔とぼたもちは同じ顔をして、犬モドキになったオリビアを見つめた。びっくりしたのだ。

 カトレアナが突然魔法を使ったことを咎めようとして、暁偉が止めた。ニコッと笑う暁偉の顔を見て。「マァマァ姐さん、今は見守ろうヨ」と言われたのが分かって、息を吐いて踏み出した足を戻した。


 ジッと目をまん丸にしてこちらを見ている少年と犬を見て、意を決したようにオリビアは歩き出した。しっぽは青い葉っぱが重なっていて、歩く度に揺れてサワサワと音がする。玩具みたいにかわいい犬がカコカコゆっくり歩み寄ってくるので、警戒する気持ちが湧かなかった。


「ど、どう? 怖くない……?」

「あ……すみません。怖くないです」


 彼女はぼたもちの真似をして、少年の膝に鼻先をつけた。これはぼたもちの構ってのサインである。しかし、稔は撫でていいのか分からず、手を彷徨わせる。


「そう! 良かった……。あのね、私はあなたを守りに来たの」


 稔のまだ少し小さい手にそっと頭を添わせる。

 子を持たないオリビアにとって少年は恋人の忘れ形見なのである。だから、ゴーストの犬と傷付いた少年を一生懸命育てることを決めたのだ。


「私は必ずミノリくんをお家に、お父さんとお母さんのところに帰すわ。約束する。絶対よ。……でも今すぐにはできないの。ごめんなさい……悪い魔法使いを捕まえるまで待ってほしいの」


「え……」


「嫌よね。早く帰りたいわね。でも今すぐ帰ると、悪い魔法使いがミノリくんの居たところに悪さをするわ。ミノリくんも、お友達やお父さんとお母さんも危ないの。だから、悪い魔法使いを捕まえるまでの間、私のお家で過ごしてくれないかしら」


 少年は固まった。もちろん両親が恋しい。安心できる温かいお家に帰りたい。されど、稔の胸にあるのはそれだけでは無い。ドロールへの怒りである。恐ろしいと同時に許し難い相手。その対局にある欲求の間で揺れているのである。


「……えっと」


 ドロールへの衝動は復讐心とはまた違う。もちろん、強い怒りはずっと心の奥でゴウゴウ燃えているが。何より、このまま帰ることになれば、稔はもう二度と魔法界、ひいてはドロールの顛末を知る術を失ってしまうのだ。大好きな家族を理不尽に奪ったドロールが罪を償うことなく、今も笑っているかもしれない。そんなどうすることも出来ない幻影が、一生脳裏に取り付き住まうことへの無意識からの恐れである。

 一方で、それはさておき。不安とストレスまみれの環境から解放される、親からの保護を求める本能とのせめぎあいである。キュルキュル脳みそが働いて、少年は固まってしまったのだ。


 何も言えないでいる少年を心配して、カトレアナも暁偉も何か声を掛けてくれている。でも耳に入らなかった。思考の邪魔だと、脳が弾いたのである。


「わふ……?」

「あ。」


 そんな限界脳みそでも、愛犬の声だけは真っ直ぐ届くのだ。脳を揺すられ、はたと思いつく。


 -そうだ、ぼたもちが見えるのは、ここが魔法の世界だからかもしない。


 結論は早かった。


「わかりました、おせわになります」

「い、いいの……?  いえ。ありがとう、強い子ね。こちらこそ、精一杯務めるわ。よろしくね」


 両親は生きてる、帰ることはできる。

 でもぼたもちは違う。きっと今傍に居るのは奇跡のようなものなのだ。魔法が解けたらきっと、空へ昇ってしまう。それが摂理であり、死んだ者の冥福しあわせはそこにあるのだろう。


 されど。分かっていても、自分から親友との別れを選ぶことは出来なかった。そう思えば両親との一時的な離別は耐えがいことではなくなったのである。


「……あの人が守った貴方を私も必ず守るわ。いつか家族の元へ帰る日まで」


 オリビアは親の元へ帰りたいと、拒絶され泣かれる事も覚悟していた。辛いだろうに、踏ん張る小さな命に胸が痛くて、抱きしめたくなった。大人の姿ではまた怖がらせてしまうだろうから、少女の姿に身を変えて、ぎゅッと少年を抱きしめた。


 驚いて見上げた彼女の顔はとても優しくて。稔は朧気に、自分を守ってくれた男の顔を思い出した。あの人もこんな顔をしていた。


「あ……。おれ、あの時は凄い心がグチャグチャで、あまり思い出せないけれど。おれを助けてくれた人、オリビアさんに似てた。すごく、優しい顔。おれちゃんと御礼言えてなくて、会えますか」


「そう……。そうだったの。ごめんね。今は遠くに行ってしまって、会えないの。でも、お手紙を出しましょう、きっと届くわ」


 沢山の死を見て、不安な子供に彼の死を告げることは出来なかった。でも、嘘も言わなかった。


「ミノリクン、熊猫コレオレね〜。また会いに行くから、ちゃんと食べて元気に遊ぶんだヨ」

「道中お腹が空いたら食べてね」


 暁偉に1番大きなパンダちゃんを貰って、カトレアナからはチョコチップのカップケーキをもらった。元気付けてくれているのが分かったので、稔は大人しくプレゼントを受け取った。


「ありがとうございます」

「いいのよ、貴方に妖精の囁きが聞こえますように」

「妖精?」

「この国での挨拶よ。しばらく会えない人の無事と幸せを願うの。小人の足音が聞こえますようにって返して」


 不思議な顔をする稔にオリビアが耳打ちで教えてくれた。


「か、カトレアナさんにも、小人の足音が聞こえますように」

「えぇ、ありがとう」


 手を振ってくれたので、ちょっぴり恥ずかしかったが振り返した。オリビアさんと手を繋ぐのは恥ずかしかったので、パンダで手がふさがって忙しいことにした。


「またネー! 今度は俺が美味しいおやつ‪『持っていくヨー! 姐さんのより美味しいカモ』」

 

 木製の両開きの扉が開く。ロビーから1歩エントランスへ踏み出した瞬間、暁偉が宇宙語を話し始めた。実際には彼の母国語であり、中国語に似た言語である。暁偉だけじゃない。みんな流暢な日本語を話していたのに、誰の音も聞き取れなくなった。びっくりして立ち止まって、キョロキョロしてしまう。


『魔導局を出たから翻訳魔法が解けたのね。言語の壁よ想いを阻むなラングフリード


 オリビアが杖を振ると、音が言葉に戻る。


「驚いたわね。もう大丈夫よ。これでまた、皆とお話できるわ」

 

 魔法とて身体機能。病気や障害、子供や衰えで魔法が使えない人間もいる。公共機関ではそういった人のために翻訳魔法等がかけられているのである。これが、魔導局で外人さん達が日本語を流暢に話せているように聞こえたタネだった。


「ありがとうございます」


 稔はまだよく分からないながらも、何かしてくれた事は分かったので、とりあえず御礼を言った。すると、オリビアさんは嬉しそうに笑うので、まぁいいかと思えた。

 外とを隔てる最後の扉が開くと少し冷たい3月の風が吹き込み、嗅いだことのない変な匂いがする。


「わぁ……」


 外を初めて見た。自動車の代わりに見たことない変な生き物が空を飛び、箒が行き交う。

 ブティックのマネキンは勝手にポーズを取り、ベーカリーでは竈からパンがひとりでに飛び出し陳列され、ウェイトレスは小人だった。 郵便屋が家を横切ると、箒に取り付けらてた緑の鞄から、ひとりでに手紙が飛び出して投函される。

 

「ブリタニア王国へようこそ、ミノリくん。私が貴方とゴーストのお友達の来訪を祝福しましょう」

 

 傷つき、怒りと不安に揺れる少年はこの時は想像することも無かっただろう。溢れる不可思議が日常のこの世界で、生涯忘れない少年時代を過ごすことになる。

 

「わふっ」

 

 ぼたもちに促され、新しい街を歩き出した。

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