サトラレ姫にも鈍感王
こうの小春
第一の巻
第一話
人生、熊と結婚することもあるものだ。
くろゆりは目の前に立ち塞がる大男を見上げ、そう思った。
「小さくて可愛い姫が来たなぁ! ようこそ、くろゆり姫。『カエリの国』へ!」
ガハハ、と豪快に笑う大男。
襟元を刈り上げた赤い短髪に、黄金に輝く切れ長の瞳が印象的な、五尺八寸以上もある背丈。
屈強な体、太い腕、大きな手足。ただ話すだけでハツラツとした大きな声。
くろゆりはやはり思った。
人生、生きていれば、熊と結婚することもあるものだ。
◆ ◆ ◆
かみのめ19年。
貿易船が開通したことにより、「うきはしの国」は海の向こうまで国交を広げることになった。
相手国は険しい山脈に囲まれた「カエリの国」。狩猟国家として名高い彼らは、質の良い鉱山資源を公益品として栄えていた。
両国は同盟を結び、その同盟をより強固なものにするべく、政略結婚が執り行われることになった。
くろゆりは、おおよそ一週間の船旅を終え、貿易船から地面に降り立つ。
銀糸が混ざった長い黒髪を、船旅用に頭の後で束ね、歩きやすい着物に着替えた軽装姿は、一週間経ってもあまり慣れない。
周囲を見渡せば、港のすぐ傍らから山道が続いているのが見えた。
潮の匂いと共に、国では嗅いだことのない、土と草花の匂いが漂っている。苦味はあるが、朝露のような清涼な空気を含ませる、良い匂いだった。
こちらの乗組員を手伝う「カエリの国」の住民たちは、皆、戦士のように
船から降ろされていく自分の荷物は、ほんの僅かだ。
そもそも自分の能力が顕現してから、ずっと小屋での生活を強いられてきたのだ。荷物など着替えと化粧道具が少ししかない。帝から「カエリの国」へ贈呈する品の方が多いほどだ。
特に感慨のない顔で見ていた彼女は、自身にかかった影に気がつき、はっとして顔を上げ──冒頭に至る。
目の前にいたのは、熊であった。
「申し遅れた。『カエリの国』を統治する、ジャグマという。長旅で疲れただろう。すぐ茶にしよう」
赤髪の屈強な男、ジャグマは、そう言って破顔した。
数人の共を引き連れやってきたのは、間違いなく、くろゆりが四日後に妻となる国の王である。
あまりの気やすさに唖然とし、返答をし損ねた彼女を気にする様子もなく、彼は部下へ指示を飛ばしていた。
「うきはしの国」では、帝やその家族が、おいそれと外に出歩くなどあり得ない。
くろゆりでさえ、政略結婚という事情がなければ、このように顔を晒して外出することもなかっただろう。ここに父が居たなら、すぐさま叱責が飛んでくるはずだ。
これが文化の違いか……と、くろゆりはやや眉を顰め、着物の合わせ目に片手を置きながら一礼した。
「お心遣い痛み入ります、ジャグマ王。『うきはしの国』、
◇ ◇ ◇
ジャグマに案内されたのは、崖を利用してそびえる城であった。
自国の内裏しか記憶にないくろゆりは、その荘厳さに気圧されたものの、心を落ち着けて城の中に入っていく。
通されたのは、広い板間の部屋であった。
壁には「カエリの国」を象徴する、炎が刺繍された布が飾られている。
なんだこれは。素足に心地よい。
慎重に正座をして片手で触ると、やはり皮膚に触れる感覚がとても良かった。
「気に入ったか? 数年前に俺が獲った鹿の皮で作ってもらってな。綺麗だろう、冬は暖かいんだぞ」
前言撤回である。
くろゆりは心を無にして、向かい側の御座に座った男を、ゆるりと見上げた。
ジャグマは肘置きに肩肘をのせ、嬉しそうにこちらを見つめ返してくる。
「まずは茶にしよう。くろゆり姫はどんな茶が好きだ?」
「どのようなものでも」
「そうか? なら先日、隣国の茶畑からもらったヤツにするか。ダイラク! すまんが茶を淹れてくれ!」
「はい、ただいま〜」
隣の部屋から、やや疲れた声音の男の返事が聞こえた。
程なくしてやや痩せ型の男が一人、朱色の盆に茶菓子を乗せて部屋に入ってくる。
ダイラクと呼ばれていた男は、くろゆりの前へ皿に乗せた茶菓子と緑茶を置くと、にこ、と笑ってジャグマの前にも置いていく。目蓋を隈が縁取っているものの、人当たりの良さそうな壮年の男だ。
可愛らしい紙に包まれた菓子も、湯気を立てるくすんだ緑茶も、初めて飲食するものばかり。
「うきはしの国」にはない、珍しい品と言ってもいい。
なるほど、これは帝が興味を示すわけである。
どうやって食べるのか考えていると、ジャグマが己の分を手で鷲掴み、口に放り込みながら話し始めた。
「しかし、まさか『うきはしの国』から天啓持ちの姫がくるとはなぁ。
「……」
あけすけに聞いてくるな、この男。
しかし表情を窺えば、まるで特別な話はしていないといった顔である。おそらく彼からすれば、本当に世間話の一環なのだろう。
沈黙を返すくろゆりの横では、ダイラクが書簡の内容を読み込んでいた。
彼の周囲では別の書簡が
「ダイラクさまは……『フユウ』の天啓でしょうか」
「え? あ、はい、ご明察です」
高度な技術を目の当たりにし、思わず呟いてしまえば、ダイラクが目尻を緩ませて笑みをこぼした。
世界には、天啓と呼ばれる不思議な力を持つ家系が生まれる。
くろゆりの生家もその一つであり、相手の思考を読み解ける『サトリ』という能力が顕現する。
帝が政略結婚の対象として、くろゆりに白羽の矢が立ったのも、『サトリ』の能力が政権に置いて重宝されるからだ。「うきはしの国」として、誠意を見せたいという現れでもある。
くろゆりに一族と同じ『サトリ』の能力があったなら、彼女自身、何も問題はなかっただろう。
それから通り一辺倒の会話をし、今度は自室へ案内されることになった。
結婚式は四日後に執り行われるが、すでに部屋はジャグマと同室であるという。
しかし扉を隔てた個室も用意されており、くろゆりの荷物はそちらに運ばれていた。
花の刺繍が可愛らしく散りばめられた布が、広間と同じく壁にかけられている。繊細な図案だ。微かな干し草の匂いが気持ちを穏やかにする。
しかし、布団にと充てがわれていた布は毛皮のようで、くろゆりは顔を青くしながら、ジャグマに丁寧に返品した。
郷土品ということは理解するが、こればかりはダメである。暑い寒い以前に気持ちの問題だ。
「暖かいんだぞ?」
「結構です」
渋々引き下がるジャグマに、くろゆりは一呼吸置くと、改めて夫になる男を見上げた。
「ジャグマ王。婚前でこのような話は不躾かと思いますが、一つ、どうしてもお伝えしたいことがあります」
「うん?」
「この婚姻は、我が国と貴国における更なる発展のため。よって、──」
視線の先にある金色の瞳に、自分が映り込んでいる錯覚がする。
まるで故郷にある稲穂のように、生命力に溢れた美しい瞳だと、そう思った。
「この結婚に、愛は不要でございます」
「え? いやだけど?」
「え?」
なんで?
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