第41話 バレンタイン、溶けるチョコと不器用な手

 教室の空気が、朝からどこか甘ったるい。窓の外は二月の薄曇り。だけど、机の上には小さな包みやリボン、ガサガサと紙袋の音が絶えない。

 俺の机の右隣、莉音が両肘をついて、じっと俺の顔を見てくる。唇の端にだけ笑みを引っかけて、いつもより髪をふんわり巻いている。

 「ねえ、陽翔。今日はチョコもらえる自信、ある?」

 「ない」

 即答すると、莉音は「へぇー?」と眉だけ動かして、机の端で何かをそっと押しやった。小さな紙袋。焦げ茶色のリボンが指に絡まる。

 「ま、期待しすぎると損するからさ」

 声は軽いのに、指先だけが紙袋の端を、離しきれずにいる。俺はそれを受け取らず、ただ窓の外に視線を泳がせた。

 

 教室の奥、真雪が静かにプリントを配っている。いつも通りの無表情。だけど、誰よりも早く教室に来て、誰よりも静かに座っていたのを、俺は知っている。

 「天野、これ。今日の分」

 プリントの束を差し出す手が、ほんの一瞬だけ震えた。紙の端が俺の指に触れる。真雪は、何もなかったように目を伏せる。

 「ありがとう」

 「……別に」

 そのまま、彼女は自分の席へ戻っていく。机の上に、まだ何もない。真雪の鞄のポケットに、細い箱が覗いていた。


 チャイムが鳴る。黒板の前で先生が話し始めても、教室の空気はそわそわしたまま。莉音が、俺の肘のあたりをつついてくる。指先が制服の袖越しに、何度も触れては離れる。

 「……陽翔、放課後、ちょっとだけ寄り道しよーよ」

 「どこに」

 「秘密」

 その「秘密」が、今日だけはやけに甘く響く。莉音は指を組み直し、袖の中で拳を握った。


 昼休み。廊下の隅で、雫が俺を待っていた。制服のスカートを揺らし、両手の後ろに何か隠している。近づくと、ほんのりカカオの匂いが混じる。

 「兄ちゃん」

 声が、思ったよりも小さい。雫の視線が、俺の胸元と顔を行ったり来たりしている。

 「これ……いらないなら、返してもいい」

 差し出されたのは、小ぶりな包み。包装紙の端が不器用に折られていて、指先にチョコレートの甘い匂いが残っていた。

 「返さない」

 言うと、雫は安心したのか、肩を落とす。包みを受け取る俺の指に、雫の指先がかすかに重なる。柔らかい、冬の朝の体温。

 ……離したいのに、離せない。包みだけを受け取っても、指先はしばらく絡まったまま。

 雫がそっと手を引く。その動きだけが、妙にゆっくり時間を進めていく。

 「……あとで、感想、聞かせて」

 「うん」

 声が震えたまま、雫は踵を返して階段へ消えた。廊下に、ふっと甘い風が流れる。


 昼食を終え、教室へ戻ると、莉音が俺の机で何かをいじっていた。俺の席にチョコの小箱がひとつ、置かれている。

 「莉音、それ……」

 「気にしないで。予行練習ってやつ」

 「なんの予行だよ」

 莉音は笑って、「うーん」と首を傾ける。髪から、ほんの微かなベリーの香りがした。

 「本番は、まだ後で」

 莉音の指先が、俺の机の縁にそっと触れる。細い爪が、木の感触を辿っていく。俺は何も言えず、ただその距離に目を落とす。

 ……指先が、俺の手の甲にかすめた。ほんの一瞬。なのに、心臓の音だけが妙に大きく響いた。


 午後の授業。黒板の字が滲む。チョコの甘い香りが、どこからともなく漂う。プリントを配る真雪の手が、また俺の手に触れる。今度は意図的、なのかもしれない。指先が紙越しに、俺の人差し指をなぞった。

 「……」

 真雪は何も言わず、自分の席へ戻る。指先に残った感触を、俺は何度も確かめる。


 放課後。

 教室の片隅で、莉音が俺を手招きする。窓際の机に、夕陽が細長く差し込んでいる。莉音の制服の袖が、光の中で透ける。俺が近づくと、莉音は小さな紙箱を両手で持った。

 「はい、これ。……義理、と見せかけて、ちょっとだけ本気」

 息を飲む。莉音の指先が、箱を渡すときに俺の手を包む。指の腹が、俺の手の甲をゆっくりなぞる。

 「……陽翔、いつもありがとう」

 「こっちこそ」

 「……もっと、近くで言いたかったけど」

 莉音は、ほんの数センチ、顔を近づけてくる。息が、頬にかかる。視線が交差して、どちらも離せない。

 「来年も、こうやって……」

 言い切らず、莉音は手を離す。俺の手の中には、まだ温もりが残っていた。


 階段を降りる途中、背後から真雪が追いかけてきた。足音は小さい。俺の肩を、そっと指先で叩く。

 「……天野」

 「ん」

 「これ」

 小さな銀色の袋。リボンがきつく結ばれている。真雪は、俺の掌にそっと置き、すぐに手を引っ込める。

 「……特別じゃない」

 「うん」

 言葉が、階段の空気に溶ける。真雪の呼吸が、耳元で滲む。ほんの一瞬、肩が触れる。真雪はそれだけで、踵を返していった。

 ……離さなければ、何かが壊れそうで。だけど、離したくなかった。


 寮の玄関。ほのかが、両手で包みを抱えて立っていた。制服の上にカーディガンを羽織り、頬が赤い。俺を見ると、たどたどしく歩み寄る。

 「天野先輩……」

 「ほのか?」

 「これ、初めて作った……変だったら、ごめんなさい」

 包みを差し出す手が、少し震えている。俺が受け取ると、ほのかの指先が俺の指の上に重なる。温度が伝わる。ほのかの呼吸が、ほんの少しだけ乱れる。

 「……大事にするよ」

 「……よかった」

 ほのかは、ほっとしたように笑い、でもすぐ視線を逸らす。髪から、微かに甘い香りがした。俺は包みに視線を落とし、離したくない衝動にかられる。


 玄関脇のベンチに、伊吹先輩が座っていた。スウェット姿。手元にはコンビニのチョコ。俺を見ると、にやりと笑う。

 「お、天野。バレンタイン、戦果は?」

 「ぼちぼち」

 「はい、これ。先輩からも、義理だ」

 伊吹先輩が、チョコを俺の手に押し付ける。先輩の手が俺の手首を強く握る。あたたかい。汗ばんだ掌が、冬の空気を押し返してくる。

 「……ありがと」

 「来月、期待してるから」

 先輩は、俺の手の甲を一瞬だけ親指でなぞり、すぐに手を離す。その余韻だけが、掌に残った。


 部屋に戻る。机の上に、包みがいくつも並ぶ。包装紙ごとに、匂いと体温が違う。指先に残っているのは、雫の震え、莉音の温もり、真雪の静かな圧、ほのかの初々しい熱、伊吹先輩の力強さ。

 ……全部、離したくない。でも、全部を選ぶことも、できない。


 窓の外、二月の曇り空。俺の部屋だけ、ほんの少しだけ甘い匂いがする。

 

 チョコの包みをひとつ、そっと開ける。溶けかけのチョコが、指にまとわりつく。舌にのせると、じわりと熱が広がる。

 

 ……好き、かもしれない。誰かを。誰かじゃない、みんなを。

 

 でも、答えはまだ出ない。指先に残る体温だけが、本物だった。

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