第36話 マフラーを巻く仕草に、指先が震えた
冷たい朝だった。ガラス越しに、冬の光がぼんやりと差し込む。制服の上から羽織ったコートの襟を立てても、首筋にしみる空気は容赦がない。登校路、口から漏れる白い息が、歩幅に合わせて揺れる。
校門の前で、莉音が手を振っていた。水色のマフラーを首にふわりと巻いて、髪の間から覗く耳がほんのり赤い。
「おはよ、陽翔。寒いね」
「おう」
莉音が歩み寄る。俺の肩に指先がかかる。マフラーの端が、俺の頬に一瞬触れた。羊毛の感触と、莉音の体温が、冬の空気に混じって溶けていく。
「ほら、これ」
莉音がマフラーを少し持ち上げて、俺の首元に当てた。動作が、やけに丁寧で、息遣いが近い。
「こうしたら、ちょっとはあったかいでしょ」
「……自分の使えよ」
「いいの。陽翔、すぐ風邪引くし」
莉音の指が、俺の首に巻きつけるマフラーの端を、そっと撫でる。ほんの一瞬、爪が俺の肌に触れた。鳥肌が立つ。
マフラー越しに莉音の手のひらの温度が伝わってくる。……離したくない、そんな衝動が、喉の奥に引っかかった。
◇
教室の窓辺に、雫が座っている。指先でページをめくりながら、視線だけが外へ向かっている。俺が近づくと、雫は振り返った。
「兄ちゃん、寒くなってきたね」
「……まあ、冬だからな」
雫が俺の手首をそっと掴む。制服の袖口の下、雫の指が冷たかった。思わず握り返しかけて、途中でやめる。雫は小さく息を吐き、俺の袖を直す。
「マフラー、ちゃんと巻いてきた?」
「莉音に……巻かれた」
雫は一瞬だけ黙り、ほんの僅か、眉が寄った。それでも何も言わず、俺の手首を離すと、制服の袖のボタンをきっちりと留めていく。その仕草が、不自然なほど丁寧だった。
「……あったかい?」
「まあ、うん」
雫はそれだけ聞いて、また本に目を落とした。けれど、俺の手の甲に残った雫の指の冷たさは、しばらく消えなかった。
◇
昼休み、廊下の窓際。真雪が一人で立っていた。冬の光が、彼女の黒髪に反射して、まるで冷たい水を纏っているみたいだった。
「天野、マフラー……似合う」
突然の言葉に、返事が遅れる。真雪は俺の顔を正面から見て、視線を逸らさない。そのまま、すっと手を伸ばしてきた。
「ちょっと……貸して」
「え?」
マフラーの端を、真雪の指先が掴む。指が俺の顎の下に触れた。呼吸が、互いの頬をかすめる距離。
「……こう」
真雪が、マフラーの結び目を直す。俺の喉元に、彼女の手のひらがふわりと触れて、爪の先が一瞬だけ皮膚をなぞる。
「無防備」
「……悪い」
真雪はそれだけ呟いて、マフラーから手を離した。その手が、ほんのわずか震えていたように見えた。俺は、何も言えずに、喉の奥で息を押し殺した。
◇
放課後、下駄箱前でほのかが待っていた。制服の上に大きめのカーディガンを羽織り、袖から小さな手が覗いている。
「先輩っ、今日もマフラー可愛いですね!」
「莉音の」
「え、そうなんですか?でも、陽翔先輩に似合ってますよ」
ほのかが、俺のマフラーにそっと指を添える。指先が、マフラーの毛糸越しに俺の首筋をくすぐる。ほのかの手は、莉音や雫よりもずっと小さくて、柔らかい。
「私も、編んでみようかな……」
「自分用にか?」
「んー……どうでしょう」
ほのかの視線が、俺の首元から顔に滑る。距離が10センチもない。ほのかの息が、俺の顎にかかる。
「……楽しみにしててください」
そう囁く声が、耳の奥に残った。
◇
寮に戻ると、エントランスで伊吹先輩に会った。スポーツバッグを肩にかけ、息を少しだけ切らしている。
「天野、マフラー、似合ってるじゃん」
「先輩のが似合います」
「冗談。あたし、マフラー巻くの下手なんだよね」
伊吹先輩が、俺のマフラーの端を掴んで引っ張る。首が少しだけ引き寄せられて、先輩の額が俺の頬に一瞬だけ触れた。冷たい。けれど、すぐに温度が移る。
「……誰にも巻かせないほうがいいよ。変な奴に取られちゃうかも」
「……はい」
先輩はニヤッと笑って、俺の肩を軽く叩いた。その手のひらの温度が、コートの上からでも妙に伝わってくる。
◇
夜、リビング。雫がソファに座って、マフラーを編み直していた。毛糸の音が、静かな部屋に小さく響く。俺が近くに座ると、雫はマフラーを差し出した。
「……明日、これ使って」
「お前の?」
「うん。莉音のは、返してあげて」
雫の指先が、俺の手に重なる。毛糸越しに、雫の体温がじんわり伝わる。指先が、震えていた。……いや、俺のほうかもしれない。
「兄ちゃん……あったかい?」
「……うん」
言葉が、喉の奥で絡まった。雫の手を、離したくなかった。
◇
部屋に戻る途中、階段の踊り場で、莉音が待っていた。小声で、俺の名前を呼ぶ。
「陽翔……マフラー、ちゃんと巻いてくれて、ありがと」
「……ああ」
莉音が、俺の首元に触れる。マフラーの端をそっと指で摘まんで、離さない。息が近い。莉音の髪から、シャンプーの香りがふわりと漂う。
「……おやすみ」
「おう」
莉音は、俺の頬にマフラー越しに指先を滑らせてから、階段を降りていった。その感触が、夜の静けさの中で、妙に残る。
◇
ベッドに横になる。首元のマフラーをほどくと、毛糸の匂いが枕に移る。指先に残る温度と震えが、なかなか消えそうになかった。
……好きかもしれない。
けれど、その言葉は、吐き出さずに胸の奥で転がしておく。
静かな夜。マフラーの端を握ったまま、目を閉じた。
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