第23話 おでこに触れた熱と沈黙の正体
エアコンの風が、天井近くでさざ波を立てる。二階の書斎は、夜の湿気と落ちきらない夕陽に包まれて、いつもより重い空気を抱えていた。指先に当たるノートの紙は、じっとりと湿り気を吸い込んでいる。鉛筆の芯が、カリカリと静かな音を立てて、何度も裏返したページの上を流れていく。
窓の外からは、セミの鳴き声も、遠い犬の吠え声さえも消えていた。静寂の中で、俺の鼓動だけが微かに響く。あれから雫は、ほとんど何も言わない。隣の席に、うつむいて座る影。
雫の髪が、頬に貼りついている。汗で濡れて、いつもの艶が消えていた。指先が、机の上で小さく震えている。ノートに俯せるその額に、じっと視線が吸い寄せられる。顔色が、いつもより青白い。呼吸も浅い。
「……雫、大丈夫か」
小さな声で、問いかける。返事は、ない。まばたきも遅くなり、目の焦点がどこにも合っていないようだった。
俺は椅子を引いて、雫の横に立つ。手のひらで、そっと額に触れる。冷たい汗と、内側から立ち上る微熱。指先が、熱をすくい取る。
「熱あるな」
喉が、勝手に乾く。体温計を探して机を離れる。書斎の棚の引き出し、ペンや古いノートの間から、小さな体温計を引き抜いた。
「雫、口開けて」
雫は、ゆっくり顔を上げた。目の奥が、うるみ気味に揺れている。俺の手を、弱く握り返した。
体温計をくわえさせる。沈黙。静かに秒針が進む音だけが、部屋の空気に混じる。雫の肩が、わずかに上下する。俺の指も、彼女の手のひらで汗ばむ。
ピ、ピ――。
体温計を抜くと、数字は38.2を示していた。
「ベッド、行くぞ」
「……だいじょうぶ」
雫の声は、かすれていた。けれど強情に、椅子の背もたれを握りしめている。俺は無理やりじゃない。けれど、そっと背に腕を回し、立ち上がらせた。
廊下の空気が、重たく沈んでいる。足音だけが、夜の家を切る。雫の体重が、俺の肩に預けられる。ぬるい熱が、シャツ越しに伝わった。
「兄ちゃん……ごめん。迷惑かけて」
「……バカ」
それ以上、何も言えなかった。
ベッドに雫を横たえる。シーツは新しい柔軟剤の香りがした。雫の髪を、枕の上にそっと広げる。指先が、無意識にその黒髪の流れをなぞっていた。
「水、持ってくる」
「行かないで」
細い声に、動きが止まる。ドアノブにかけた手が、しばらく離れなかった。
「ここ、いる」
ベッドの端に腰かける。雫が、目を閉じたまま俺の袖を握る。指が、震えていた。俺はその手を包み込む。雫の皮膚の熱と、俺の体温が混ざる。
部屋の時計の針が、静かに進む。時間が、ぬるま湯のように流れていく。
「兄ちゃん、昔、熱出した時――」
「うん」
「……ずっと、手握っててくれた」
「お前、子供みたいに泣いてたな」
雫が、かすかに笑う。唇が、触れるか触れないかの距離まで近づいた。俺は、視線を逸らす。けれど、雫の指が、袖の中で俺の手首を探していた。
「もう、子供じゃないよ」
その声が、胸の奥に沈み込む。言葉を返せなかった。静寂が、ふたりの間に降り積もる。
雫の髪が、ベッドの上に広がる。指先が、無意識にそこに触れる。汗に濡れた髪の感触が、夜の湿度の中で、やけに生々しい。
「兄ちゃん、もし――」
雫の声が、消える。「もし」が何なのか、訊けなかった。俺は、ただ雫の熱を受け止める。
背中越しに、階段を上がる小さな足音。莉音だ。ノックもせず、ドアがそっと開く。
「あれ、雫ちゃん……?」
莉音が、心配そうに覗き込む。俺は軽く首を振る。
「熱みたいだ」
莉音が、急いで冷えピタと水の入ったコップを持ってきてくれる。手際がいい。雫の額に冷えピタを貼り、頭を撫でる。その手の動きに、柔らかな髪の香りがふわりと広がった。
「……あんまり、無理しちゃダメだよ」
莉音の声は、さっきよりずっと優しかった。雫は、目を閉じたまま微かに頷いた。
莉音とふたり、しばらくベッドの端に座る。雫の寝息が、徐々に穏やかになる。莉音の髪が、肩越しに揺れる。俺の指先に、その先端がふれて、静かな香りが残った。
「陽翔、あんたも寝なよ。顔色悪い」
「俺は大丈夫」
「……強がり」
莉音が小さく笑い、俺の肩に頭を預ける。髪が、頬をくすぐる。汗とシャンプー、どちらともつかない混じりあった匂い。
静かだ。三人分の呼吸だけが、部屋の空気を揺らしている。
雫が、寝言のように俺の名前を呼ぶ。莉音が、そっとその手を握る。俺は、ただその隣に座る。言葉は要らなかった。
――おでこに触れた熱。それは雫のものか、俺自身のものか。まだ区別ができない。
時計の針が、午前二時を指す。冷えピタの端が、少しだけ剥がれていた。俺はそっと、それを押し直す。雫の額に触れる指先が、まだ少し熱を持っていた。
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